2017年1月12日木曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 骨投沢の言い伝えを生み出した商人「河村瑞賢」

越後駒ヶ岳

今日のイラストは、八海山から望む「越後駒ヶ岳」です。

昨日、骨投沢の話を書かせて頂きました。
枝折峠を超えてはならぬ~骨投沢
銀山から採掘した銀を不正に持ち出させるのを阻止するため
(骨箱に入れて、里に持ち出そうとした人がいたので)
銀山を管理していた河村瑞賢は
「遺体や遺骨を、その沢を越えて持ち出そうとすると、明神様の祟りがある」
といういわれを作ったと言います。
その沢でみんなが骨を投げて行くので、骨投沢という名前がついたとのこと。

河村さん、なかなかのやり手です。

では、河村瑞賢とはどのような人物だったのでしょうか?
河村瑞賢は江戸時代の商人で、材木屋を営んでいました。

明暦の大火後、木曾福島の材木を買占め、土木建築を請負い、利益を得たといいます。
明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われています。

お寺の小姓に一目ぼれをした梅乃が、彼に恋い焦がれるまま亡くなってしまう。
娘を憐れんだ両親が、娘が愛した振袖を娘の棺にかけてやる。この振袖が転売され、それを買った娘が無くなり、また振袖が棺にかけられ転売される……それを何度か繰り返す。
振袖に因縁を感じ、寺の住職が焼いて供養をしようとすると、にわかに風が吹き火のついた振袖が舞い上がる。

というような伝説があり、小泉八雲(池田美術館の常設展にゆかりの品が展示されている、ラフカディオ・ハーンさんですよ~♪)も小説として物語を描いています。
ただ、作り話という説があり、放火が原因という説もあります。

話しを、河村さんに戻しましょう。
やり手の河村さんは、幕府に見込まれ、公共事業に関わるようになります。
江戸廻りの東廻り航路や、日本海沿岸から瀬戸内海を廻り江戸に入る西廻海運を確立しています。
そのほか、淀川や木津川の治水工事なども手掛けています。

魚沼の人は「銀山」という名称で呼んでいますが、正式名称は「上田銀山」と言います。
高田藩管轄の銀山が「上田銀山」会津藩側の銀山が「白峯(しらぶ)銀山」という名称で、
この二つを合わせて、大福銀山と呼んでいたそうです。
ちなみに、白峯銀山のほうが後から発見されました。

河村さんは、高田と会津両方の大福銀山の管理を行っていました。
全国各地で築港、治水、開拓、採掘などを手掛けた、現在で言うと土木のエキスパートと言える人物ですね。
晩年は松尾芭蕉と交流していたそうですよ。
元禄12年に83歳で天寿を全うしたと言いますが、当時の人にしてみると、かなりの長生きですよね。
足を使って動いたのが長生きの秘訣でしょうか?

河村瑞賢さん。商人&土木、あと他にもなにかありそうな方ですね。

2017年1月11日水曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 枝折峠を越えてはならぬ~骨投沢

駒の湯





今日のイラストは「越後駒ヶ岳」。駒の湯からの風景です。

年始に魚沼に帰郷したとき、とよじいに銀山のことを質問してみました。

銀山は昔、銀の採掘がおこなわれていたそうですが、
掘削しすぎて、河川の底を打ちぬいたため、川水が坑道内に入り込み
多数の死者をだし、以後、採掘が下火になっていったということです。

採掘した銀を麓まで運ぶための道が「銀の道」でした。

この採掘した銀を、自分の物にしようとしなかったのだろうか?
湯之谷付近で、銀細工などの店がなかったのだろうか?

と、以前、妹たちと話をしていたのです。
銀の工芸品などが魚沼に伝承されていないのが不思議だねと。

でも、一般人が銀を使うことなど、当時の幕府は許さなかったのでしょうね。
銀の持ち出し、持ち逃げは重い罪がかせられたようです。

銀を持ち出した者に石を抱かせ、拷問した場所が、銀山平のトンネル近くにある「石抱き」です。

そして、銀の道付近に「骨投沢」という沢があります。
この沢を越えるときは、親の骨も置いていかなければいけないという言い伝えがあったと
とよじいが言っていました。

遺骨を持って里に下りると言って、骨箱に銀を隠し持っていた人がいたそうです。
そこで、骨を持って沢を越えると、大明神がお怒りになり、祟りや罰が当たるという話しを
幕府の役人が作り出したと言います。
昔の人たちはそれを信じ、後世まで遺骨や遺体を持ち出さなかったそうです。

このいわれが迷信だと証明するため、近世になってからですが、
亡くなった親を(遺骨だったかな?)抱えて
骨投沢を越えた方がいらっしゃったと、とよじいが話してくれました。
もう一回、詳しく聞いてきますね。

その方の行動で、やっとみなさん、祟りはないのだと理解したということです。

とよじい、酔っ払っていたので、真偽のほどが定かではありませんので、
骨投沢については、要検証です。

2017年1月10日火曜日

八海山とまんさくのイラスト 雪見展ありがとうございました

八海山とまんさく

1月8日9日と池田美術館で「雪見展」が開催されました。
魚沼工房もengelightと共に参加させていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。

ブースに遊びに来てくださった方々、スタッフのみなさま、出店者のみなさま、池田美術館のみなさま、お世話になり、ありがとうございました!

池田美術館は本当に居心地が良い空間で、そこにいるだけで心がホッとします。
景色もすばらしく、魚沼の山々に包まれているようで安心できます。

また来年も、ぜひ参加させていただきたいと願っております。

雪見展では、とよじいの昔の絵を絵葉書とさせてもらいました。
とよじいは幸い(?)勤務で家に戻ってこなかったので(今回、私は会えなかったです)
出典作品を見て怒られることはありませんでした。

ブログにアップした2017年カレンダーは、使用した絵がいかんといってNGが出たので。
山の特徴をつかんだ方向があり、そこを描いた絵でなければダメだということでした。

登山がお好きな方から、山のお話を聞かせていただけて、嬉しかったです。
今年は、山に関する知識や土地に関する知識、文化などをさらに探っていきたいと思いました。

あらためて、2017年も魚沼工房(とよじいも)よろしくお願いいたします。

2017年1月5日木曜日

学問の神様「菅原道真」と「綾子舞」の関係



こんにちは。
お休みは今日まで明日から学校~。という人も多いかな?
宿題終わりましたか? 受験シーズンでもありますね。
なにかに打ち込むっていいですよね。うん、本当に。

変な前置きで、すみません。

今日のイラストは、柏崎市に伝わる伝統芸能「綾子舞」です。

上杉房能の奥方、綾子によって伝えられたといわれている踊りです。

房能は上杉謙信の父である、長尾為景に討たれました。上杉さんちと長尾さんちは、お家騒動というか、身内で争っていた時期があります。
房能は上杉謙信のおじいちゃん長尾能景の「能」の字を名前にもらったわけですが、上杉謙信のお父さん長尾能景は、房能の子ども(養子)定実を味方につけ、房能に反旗を翻します。

追いつめられた房能は、松之山の天水越で自害し、その弔い塚が存在しています。

綾子舞の伝承説には、菅原道真が巫女の文子に憑依し「北野の地に我をまつれ」という託宣があり、その舞を武士、北国武太夫が伝えたという一説もあります。

房能の奥方「綾子」も都から来た白拍子であったようです。

京の都から佐渡に至る、糸魚川・柏崎・佐渡というルートが存在していて、その地点地点に都の文化がもたらされているようです。

香川県まんのう町にも「綾子踊」というものが伝承されているそうです。こちらは、雨乞いの踊り。
女性が舞うのではなく、男性が女装して舞を奉納するといいます。

綾子踊には関係していませんが、888年に菅原道真が城山神社に籠り雨乞いの祈祷をしていますよ。

柏崎の綾子舞は高原田と下野と2つの座元があります。とよじいのイラストは下野の綾子舞かな、衣装を見ると。
高原田の衣装は、まんのう町の綾子踊の衣装と似ているところがあるような気がします。
高原田の「小切子踊」は、道真が九州に左遷される前、都七条坊門の娘「文」が夢のお告げにより、三条大橋のたもとで道真を見送って踊った踊りだそうです。

綾子と道真が関係しているのかなぁ、と調べてみたところ、道真の乳母が文子(あやこ)さんでした。
多治比文子が道真を祀ったことが始まりの「文子天満宮」が京都にありました。
文子さんは、乳母ではなく巫女という説もあるようですね。

全国各地で「天神様」として菅原道真が祀られていますが、舞の伝承と共に広まっていったのかもしれませんね。

2017年1月4日水曜日

佐渡の鬼太鼓 佐渡ののろま人形のイラスト 「の」が多い(*^_^*)

こんにちは。今日から仕事初めという方も多いと思います。
いよいよ、一年が動き出すという感じですよね。
2017年、どんな年になるのでしょうか。

今日のイラストは「佐渡島」の鬼太鼓とのろま人形です。

鬼太鼓のほうは、油絵を写真に撮ったものをスキャンしました。
のろま人形はクレパスかな?

個人的に今年、佐渡に行ってみたいなと思います。
薪能とか見てみたいです。


2017年1月3日火曜日

相馬野馬追のイラスト

こんにちは!
みなさん、初夢はどんな夢を見ましたか?
お正月三が日も今日で終わり。
早いですねぇ…。

早い! ということで、今日のイラストは「相馬野馬追」。
かっこいいですねぇ。

起源は相馬氏の始祖である、平将門にはじまると言われています。
野馬を放して、馬を追い生け捕ることで、戦いの訓練をしていた

野馬追で着用する甲冑の中には、先祖伝来のものもあるそうです。
見てみたいですね!


2017年1月1日日曜日

一村尾 若宮八幡宮 十五夜大祭 太太神楽

あけまして、おめでとうございます!
2017年も、よろしくお願いいたします(*^_^*)

2017年元日のイラストは、南魚沼市薮神地区の一村尾で行われる由緒あるお祭り
「若宮八幡宮 十五夜大祭」の太太神楽です。

江戸時代宝暦年間の頃より、一村尾に伝わる御神楽で、32面の面を使い、26座の神楽舞が奉納されます。
32面のうち27面は、日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次(1836~1882)の手によるもの。
南魚沼市指定無形文化財でございます。

昔は、舞と配役が決まっていたそうですが、今は村の人たちが協力して伝承に努めているそうです。
ずっと残していただきたい伝統ですね。



2016年12月28日水曜日

竜胆の根を使ったチョコレート 竜胆のイラスト



今日のイラストは「竜胆(りんどう)」です。
リンドウ科リンドウ属の多年生植物。

リンドウ科の植物は約70属1100種類以上あるといわれていますが、その中でも竜胆は生薬として活用されています。

竜胆の根から作られた生薬は「熊の胆」よりさらに苦いので、竜の胆とよばれ竜胆(リュウタン)の読みが、リンドウへと変化したとのこと。

また、竜胆にはもうひとつ名前があり、昔は疫病草(えやみくさ)と呼ばれていたと言います。

えやみ=疫病を止める、という意味だそうですが、えやみ草の由来には、もうひとつ説があります。

根があまりに苦いので、根を舐めると「笑み」が止まるので、笑止草でえやみ草となったというものです。

笑みが止まるほどの苦みは「ゲンチオピクロシド」と呼ばれる苦味配糖体という成分で、苦くいお茶で有名なセンブリにも含まれています。

ゲンチオピクロシドの苦みを薬として活用しているのは日本だけではありません。

フランスのジュラ地方では「ゲンチアナ」というリンドウ科の植物の根を使った薬草種があるそうです。

ジュラ地方の人たちは、19世紀からゲンチアナの根を使った薬草酒を飲んでいたと言います。

この、フランス東部ジュラ地方には、直系一族だけで100年以上も手作りショコラを作っている名門ショコラトリーがあります。

その名は「イルサンジェー」。

100年以上も前のレシピを現在も守り続け、一子相伝でのショコラを作っています。
レシピ本を開くことを許されているのは、イルサンジェ一族の当主のみ──。

なぜ、ここで、イルサンジェーのショコラの話を持ち出したのか?

それは、ショコラティエのイルサンジェーの代々当主たちも、竜胆の薬草酒を好んで飲んでいたから。

プラス。

イルサンジェーが2016年秋に竜胆の根を使った限定ショコラ「ラシーヌ・カレ」を販売したからです。

チョコレートも薬用として活用されることがあり、ゲンチアナも薬用として活用されている。この共通点からヒントを得て、ラシーヌ・カレの製作に至ったそうです。

竜胆の根はフランス産を使用。
チョコレートは「ガナッシュ」と、アーモンドパウダーを使ったマジパンの2層仕上げ。

数量は50個限定で、2016年10月31日販売。

もう、販売は終わっていますが(汗)

イルサンジューのチョコレートは購入できますよ。

1Fブティックでの購入は、予約不要で1粒から購入可能。
※ただし、数に限りがあるので、事前に電話で在庫状況の確認をお願いしますとのこと。

ブティック地下B1Fのサロンでは、フランスから直輸入した20~30種類のショコラの食べ比べセットや、イルサンジェー当主厳選の3種のワインをショコラと組み合わせて楽しむセットも。ワインNGな方は、コーヒーや紅茶のセットもOK。
※サロンは事前予約が必要です。

バレンタインデーにチョコレートを手渡しで贈るのもいいですが、サロンでゆったりチョコレートとワインを味わうというのも素敵ですね。

気になる方は、イルサンジェーのサイトへGO!

いやぁ、魚沼工房っぽくない、おしゃれな内容でしたが、いかがでしたでしょうか?
たまには、おしゃれなのもいいですか……ね?(*^_^*)

2016年12月27日火曜日

汚染物質を吸収蓄積する植物 ハイパー・アキュミレーター植物について シラタマノキのイラスト



今日のイラストは「シラタマノキ」です。
ツツジ科の常緑小低木で、白い実をつけます。
似ているもので「雪晃木」という植物もあります。

宮城県、秋田県、岩手県の3県またがる栗駒山(標高1626m)の周辺には「シラタマノキ湿原」があり、シラタマノキが保護されているそうです。

シラタマノキ湿原はツンドラ湿原とよばれる泥炭層で、コケからできた鉄分を多く含む泥炭からなり、学術的に貴重な場所だといいます。

シラタマノキは「比較的乾燥した場所に生える」とのことですが……。
栗駒山のシラタマノキ湿原は湿原。

湿原。

湿原は『淡水によって湿った草原を指す』と、wiki先生が言っています。

湿っていたら、比較的乾燥した場所に生えるシラタマノキは生えるのか?

と思って、調べてみたところ、シラタマノキは「岩石帯や砂礫地などやせた地に生息してる」という記述も見かけました。

では、湿度ではなく、土の性質に関係するのかな? と思って検索しましたら。

シラタマノキはツツジ科の火山性植物で「火山地帯の硫黄分の強い土地でも育つ」そうです。と書かれていました。

シラタマノキの実をつぶすと、サリチル酸の匂いがします。
サリチル酸臭って? サロメチールの匂いですね。
シラタマノキの仲間は葉っぱや実に、サリチル酸メチルを多く含んでいます。

植物は生育環境が変わったり、昆虫や病原菌の害を受けたりすると、自分を守るために独自の防御策をとります。

環境の変化にはアブシジン酸、虫に食べられないためにジャスモン酸、病原菌の感性を防ぐためにサリチル酸を生合成し、ストレスに耐えるためのタンパク質を合成します。

シラタマノキは身を守るために、サリチル酸を生合成したのでしょうかね?
火山が関係しているのでしょうか?

植物の中には汚染されている土壌や金属類が多く含まれる土地を好んで生息するものがいて、汚染物質を吸収する植物のことを「ハイパー・アキュミレーター植物」と呼ぶそうです。

ハイパー・アキュミレーター植物」は、他の植物が育たない環境に生息します。
これは、子孫を残すための生き残り作戦。

国立環境研究所発行の「国環研ニュース26巻」に、
生物圏環境研究領域生態遺伝研究室主任研究員の玉置雅紀の研究ノート
「毒を貯める植物 −植物はなぜ重金属を貯めるのか?−」が掲載されています。

こちらに、ハイパー・アキュミレーター植物のことが詳しく書かれていました。

シラタマノキにある成分「サリチル酸」は植物が病原菌の二次感染を防ぐために自ら作り出している成分ですが、害虫に対する防御目的もあるとのこと。

北米に自生するアブラナ科の植物スタンレヤ・ピナータは、土壌汚染物質であり金属の一種でもあるセレンを高蓄積するハイパー・アキュミレーター植物

この、スタンレヤ・ピナータはセレンが含まれていない土壌に育った場合でも、エチレン・ジャスモン酸とサリチル酸の合成を通して、害虫から身を守るための防御タンパク質を生産するそうです。

ちなみに、セレンがある土地に育っているスタンレヤ・ピナータは防御タンパク質を作りません。

防御タンパク質を作らないほうが、生育が良くなる(セレンがある土地に育っているほうが)と言います。

ハイパー・アキュミレーター植物、すごいですね。

シラタマノキもハイパー・アキュミレーター植物なのでしょうか?
植物の世界は奥が深いですね。

最後に、みんなに自慢できちゃう、プチ情報を!

ヤナギの樹皮は、古来痛み止めとして用いられていました。
これは、ヤナギの成分サリシンが人の体内に入ると、サリチル酸に変化し抗炎症作用を著すからなんですって。

あ、知っていました? それは、失礼しました。

2016年12月25日日曜日

武田信玄は山の神だったのか…… 日陰ツヅジのイラスト 




今日のイラストは「日陰ツツジ」です。




そしてまた、一見すると関係のないような武田信玄をタイトルにもってくる。



大きな風呂敷をタイトルでひろげるわけですが、あきれず最後までお付き合いいただければと……。




ツツジの仲間で、淡い黄白色の花が特徴的です。開花時期は4月~5月。


山の崖や谷など、足場が悪く日当たりが悪い場所に咲くので「日陰」の名称がついたようですね。



ツツジというと、春のポカポカ陽気に咲く、美しい花というイメージがあります。


ピンク、赤、紫、オレンジと華やかな色の花が咲きます。



ツツジを感じで書くと「躑躅」。どくろ? と間違えそうです。私だけ?



なんで、こんな漢字に……と思って調べましたら。


躑躅⇒てきちょく。とも読むそうです。


進んでは止まるという意味があり、花の美しさに見る人が足を止めることから、
躑躅⇒ツツジと読むようになった説と。



もともとは、
躑躅の前に羊の文字がつく、羊躑躅と書き、ツツジの葉には毒があり、その葉を食べた羊が毒にやられて、足がフラフラして死んでしまう様子から、躑躅と書くようになったという説があります。



ツツジの花をとって、蜜を吸っていた覚えのある人、多いと思います。


葉には毒があるものがあるのですねぇ。こわこわ。



ツツジは農耕にも関係があり、古くは山にツツジが咲くと、農耕開始の合図とされていたようです。

この文章を書いていてフッと思い出したのですが、魚沼(小出)では5月に山の祭りがおこなわれていました。


今は「小出公園さくら・つつじまつり」ですが。



これ、山の神を里に迎える、農耕のお祭りの一環ではないかと?



4月8日や5月8日に、山に登りツツジや藤など季節の花をとってきて、竿の先につけて家や庭先に飾る、天道花の風習。


山から里へと、山の神様を迎えて農作物の加護を祈るお祭りです。


近畿や中国、四国地方の民族風習だと言います。



ツツジなどの花枝が憑代となって、神様がやどるわけです。



ちなみに、武田信玄の居城名にも躑躅の文字がつきます。


躑躅ヶ崎館。躑躅ヶ崎という尾根があり、そこに居城を構えたことが由来と言われています。


ただ、躑躅ヶ崎館内にはツツジはないそうです。



縁起をかついで、躑躅ケ崎を選んだのかなぁ、ツツジは縁起がいいのかなぁ、
と思って調べましたが、所以は見つかりませんでした。



躑躅は縁起木ではあるようですがね。



山の神のやどりぎとして躑躅が使われているから、躑躅にしたのかとも思ったのですが、
わかりませんでしたぁ~!



ただ、80年代に放送された大河ドラマ「武田信玄」では
信玄が亡くなったとき、その死を知った織田信長が
「そうか死んだか……山の神、武田信玄」と言った(セリフで)ようです。



信玄が甲斐の土地の山の神であり、躑躅という名のつく居城が憑代であったのかもしれませんね。



お役目を終え、12月の山の神の日に、信玄も山に帰っていったのかもしれません……。



うまくまとまった! ような気がする……。

2016年12月17日土曜日

中大兄皇子は気象予報士だった!? 巻機山のイラスト



今日のイラストは「巻機山」です。


新潟県南魚沼市と群馬県みなかみ町とにまたがる、標高1967mの山です。
四季を通じて登れる山で、登山客に人気があり、リピーターが多いと言われています。


巻機山がなんで、中大兄皇子?

と思われましたよね。

今日のブログは、巻機山の名前について書いています。

巻(まき)の文字に「豊幡雲」という雲が関係しているのですが、
中大兄皇子が詠んだ歌に、豊幡雲という言葉が登場するのです。

ちょっと長くなりますが、よろしければ最後までお付き合いくださいね。


南魚沼市は昔から、織物が盛んでした。
地元の人々は、機織りや養蚕の神として、巻機山を崇拝していたのですね。

機を織る女神がいるとして、昔話や伝説も残されています。

巻機山の御祭神は「天満巻機千里姫」。
こちらの女神様、調べたのですがなかなかお姿を現してくださらない。

ただ、もしかすると、お名前が違っていて「天棚機姫命」なのではないかなと?

天照大神が天の岩戸に閉じこもったとき、誘い出すための文布を織った織物の神様です。七夕の織姫ですね。

他にも、機織りの女神様がいらっしゃいます。
栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)です。

姫様たちのお名前がミックスされて「天満巻機千里姫」となったのかな?

機織りが盛んということで、機織りの神様を祭るので「機(ハタ)」の文字がついているのはわかりました。

では、巻機の「巻(マキ)」はどういう意味なのか?

山頂付近にたなびく豊幡雲(とよはたぐも)が山にまきついているように見えることから「巻(マキ)」の文字がつけられたという説もあります。

豊幡雲とは!?

ここで、また知らない言葉がでてきました……豊幡雲ってなんだ?

wiki先生は、皇居の宴会場である豊明殿の壁面に、つづれ織りによる豊幡雲の装飾があると言っています。

また、万葉集でも中大兄皇子(天智天皇)が詠んだ歌に豊旗雲がでてきます。

「海神(綿津海)の 豊旗雲に 入日さし 今宵の月夜 清明己曾(さやけくありこそ)」

海神様が空に豊旗雲をたなびかせている、なんと美しい光景だろう。今夜の月もきっと美しいことであろうなぁ。

どうやら、この豊旗雲。近年までどのような雲かわかっていなかったようです。

が!

豊旗雲について、調べた方がいらっしゃいました!

伊藤亀雄さん。日本気象学会の機関誌「天気」に「考証豊旗雲」として豊旗雲の研究が掲載されています。

著者である伊藤さんは気象技術官養成所に所属していたそうです。
昭和2年、伊藤さんは筑波山の頂上で、気象学者の藤原咲平先生から

「あの雲を見なさい、あれはBand Cirrusと言って、天気の悪くなる前兆だよ」
と空になびく雲についての説明を受けたそうです。

Band Cirrus ⇒ 帯状絹雲です。

このとき、東から西にかけて、長い白雲が三条ほど棚引いていたと言います。

その後、伊藤さんは岐阜側候所の屋上から、帯状絹雲のスケッチをし続けました。
観測を行ってから、帯状絹雲が頻繁に現れることがわかったと言います。

帯状絹雲が現れてから、雨が降り出すまでの時間を観測。
結果、この雲が雨の前兆とは言えないとの結論に達しました。

ただ、雲のなびく方向に意味があることが分かったのです。
同じ帯状絹雲でも、その両端が収束して地平線に接する方向により、その後の雨が降るかどうかが違ってくる。

・西から北⇒降水確率高
・西南西⇒降水確率低

帯状絹雲には、晴兆のものと雨兆のものに別けられる。
これは、気圧の関係によるものということ。
晴兆が出現してから雨が降るのは、雷雨や寒冷前線の影響があることを突き止めました。

中大兄皇子が詠んだ歌にある「豊旗雲」は
「南西で地平線に接する帯状絹雲」ではないか……と伊藤さんは推測しました。
南西の帯状絹雲は、降水確率低。つまり、晴兆。

さらに伊藤さんは古文書を調べ、昔の人たちが帯状絹雲の晴兆と雨兆を見分ける観天望気の知識があったはずだという確信を得たのです。

ここで、中大兄皇子の歌を思い出してください。

「海神(綿津海)の 豊旗雲に 入日さし 今宵の月夜 清明己曾(さやけくありこそ)」

中大兄皇子がこの歌を詠んだのは、軍勢を率いて戦いに向かおうとしている最中。

伊藤さんは、中大兄皇子の歌は「夜の月もきっと美しいことであろうなぁ」という願望の歌ではなく、天気予報であるとおっしゃっています。

夜の天候を予想し、軍に今宵も晴れる、我々には海神の加護がついている、ということを伝えたかったのかもしれませんね。


いやいや。大脱線しちゃいました!

巻機山にたなびく豊旗雲は帯状絹雲ということがわかりました。

帯状絹雲は気圧の関係で出現する雲のようですが。
巻機山には帯状絹雲がよく出るのかな? そして、天気の境目だったりするのかな?

巻機山は、機織りの女神様と天気の神様に守られている山ということなのでしょう。

2016年12月16日金曜日

根が浮き上がった桜のある場所は危ない!? 山桜のイラスト

今日のイラストは「山桜」と「雪山」です。
雪が降る季節である冬に桜!? と思われますよね。
雪が降ったから、春を思いまして……。冬が苦手なので、どうしても春に思いをはせてしまうのです。

桜というと、ソメイヨシノがよく知られていますし、また街路樹として植えられています。

桜はヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラなどの種類があり、変性や交雑などから数十種類の自生種が存在していると言われています。

ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの交配種でクローン桜です。
江戸時代末期に、江戸の染井村の庭師や植木職人たちが育成したと言われています。

その実が発芽することはなく、自然に増えない桜です。
ソメイヨシノは、接ぎ木や挿し木など、人の手を介さないと、生存できないのです。

桜守の佐野藤右衛門さんは、著書『櫻よ「花見の作法」から「木のこころ」まで』で、
「夏の染井吉野はかわいそうや」と言っています。

ソメイヨシノは虫がつきやすく、テングス病にもなりやすい。けれど、花が咲く春だけもてはやし、あとは放っておく。夏になったら、誰もソメイヨシノを見ない(診ない)。

枝葉を伸ばし幹を太らせようとしているのに、葉が虫に食われても、枝が折れていても知らん顔をしている。

人が植えたくせに、咲いているのが当たり前という感覚で手入れを怠っている。


ソメイヨシノの寿命が、自生種に比べて短いと言われているのをご存知でしょうか?
60年寿命説というものもあります。

戦後大量に植えられたソメイヨシノが、同じような時期に寿命を迎えるかもしれないわけです。
ソメイヨシノは実生ではないので、いまあるソメイヨシノの寿命が一斉に尽きて、街路に桜が見られないという可能性もあるのです。

ただ、樹齢100年を超えるソメイヨシノもあるので、大切に管理すれば、街路のソメイヨシノも長生きしてくれるのではないでしょうか。

ちなみに、佐野さんは「山桜は放っておけばいい。自分で体調を整えている」と言います。
さすが、強いです。

佐野さんの、山桜に関する記述でためになる情報をもう一つ。

佐野さんは一人で山に山桜を探しに行くのだそうです。
そして、桜の推定年齢を確認し、その後、里山の年配者に山での異変の有無を確認する。

異変があった場所の桜は、根が浮き上がったり、穴が開いていたりする。
とすると、その桜が咲いている付近は、地盤の問題や土砂崩れが起きやすい場所である可能性がある。

昔の人は、そういった場所を避けて集落を作っていたと言います。

根が浮き上がった桜のある場所は、家を建てるときに気を付けたほうがいい。
それも、桜が教えてくれている……そう佐野さんが教えてくれています。

山桜を探しに行くと、その土地の歴史やいろいろなことが分かるそうです。

2016年12月15日木曜日

登山者を救う白骨 槍ケ岳のイラスト






今日のイラストは「水晶岳から槍ケ岳を望む」です。
水晶岳(標高2986m)槍ケ岳(標高3180m)ともに、富山県にある山です。

水晶岳はその名の通り、山頂部で水晶が採取されることに由来しています。

水晶岳へ入山し、槍ケ岳へと向かう縦走コースがあります。
通称「裏銀座コース」と言い、長野県高瀬ダムより入山して、烏帽子岳、野口五郎岳、水晶岳を縦走して、槍ケ岳に至ります。
裏銀座も北側からと南側から入るルートがあるようですね。

槍ケ岳が3000m級の山で、この山々の中で最も高いので、イラストにあるように、かなり離れている水晶岳からも槍ケ岳が見えるのですね。

さて。「黒部の山賊」(著者:伊藤正一)という書籍があります。

北アルプスで山小屋の経営に携わってきた著者と「山賊」と呼ばれた仲間たちが体験した様々な出来事を描いた書籍。

その中に「道しるべになった水晶岳の白骨」というものがありました。
ドキドキするようなタイトルですね。

昭和20年代。水晶岳で白骨が発見される。だが、諸事情で白骨はそのまま、水晶岳に残される。
じつは、白骨が発見された場所は、登山者が道に迷いやすい個所で、道から外れた人は白骨を見て驚き、道が間違っていると気付き引き返したという。
登山者たちは白骨に救われたが、その後白骨は片付けられた──。

このお話し以外にも、「巧みな狸の擬音」「カッパの正体」「ほんとうにあるのか山中の埋蔵金」といった、ワクワク感を抱かせるタイトルのお話が満載!

ちなみに、埋蔵金というと徳川の埋蔵金を思い浮かべる方が多いと思いますが、この書籍に描かれている埋蔵金は、戦国武将・佐々成政の「さらさら超え」に由来するもの。

徳川の埋蔵金ではないですが、家康がからんでいますね。
佐々成政が家康と直談判するため、冬の立山連峰を超えようとしたが、道中が厳しく旅の妨げになる、兜や壺、軍用金を山中に埋めた……というもの。
「佐々成政の埋蔵金伝説」ですね。

ここに、水晶岳からんできてませんが、お話のついでに書かせて頂きました。
興味がある方は埋蔵金探しに行かれて──ではなく(笑)
本を読んでみてくださいね♪

あ。槍ケ岳について書いていませんでしたね。
槍ケ岳は、1828年に現在の富山県出身の播隆上人が開山しました。
阿弥陀如来と観世音菩薩、文殊菩薩を安置し、人々が山頂まで登れるように、山道の整備を行ったそうです。

播隆上人、頑張り屋さんです。

槍ケ岳については、また後日詳しく書きたいと思います。