2017年5月2日火曜日

佐渡島 鬼太鼓のイラスト


今日のイラストは、佐渡島を代表する伝統芸能「鬼太鼓」のラフ画です。
「おにだいこ」ではなく「おんでこ」と読みます。

鬼太鼓は佐渡島の各地区で様々な形式があり、約120地区で鬼太鼓が伝えられていると言われています。

いくつか流派があり、一対の鬼が躍るものや、鬼がいない鬼太鼓(豆まき流)など形が違い、それぞれ見どころがあります。

4月になると、各集落で祭りが開催され、鬼太鼓が披露されます。

「え? 4月開催なの?」

5月の連休、GWが明日からスタートしますので、このお休みに鬼太鼓を見に行こう!
と思われたかもしれませんよね(私もです)。

鬼太鼓は4月披露がピークのようです(汗)が!

両津の若宮さん「八幡若宮社例大祭」が、5月5日に開催され、そちらで鬼太鼓が披露されます!
大祭「湊祭り」では鬼太鼓のほか。獅子、神輿、芸山車が繰り出し、見どころ満載です。

ちなみに、佐渡は能も盛んな地域で、世阿弥とも縁がある島です。
各地に能舞台が点在しており、春から夏にかけては薪能が開催されます。

5月6日には両津薪能が行われるので「八幡若宮社例大祭」と一緒に見学されてみてはいかがでしょうか?

話しを、鬼太鼓に戻しますね。

鬼太鼓の鬼は雄雌があり、舞の形が違います。また、面の形や衣装や髪の毛の色も違っています。

仁王様や狛犬と同じように、口が「あ」「うん」の形で異なります。

雄⇒「吽 うん」 口を閉じうる。
雌⇒「阿 あ」 口を開けている。

面の色は、雄が黒で雌が赤。
髪の毛(舎熊 しゃぐま)は、雄が黒で雌が白系。
衣装の上着が雄が紫などで、雌が赤系。

面は憤怒の業に見えるので、雄雌どちも雄に見えますが。
あ、でも。鬼女というだけあるから、どっちも雌に見える……が正しいのかな?

佐渡の鬼太鼓は歴史深く、由縁もあり、興味深い伝統芸能です。
GWに開催されるイベントなどについて、以下に記載させていただきます。

よろしければ是非、佐渡に足を運んでみてくださいね♪


【八幡若宮社例大祭 湊祭り】
開催日:5月5日
開催地:佐渡市両津湊213(八幡若宮神社)
アクセス:両津港から車で約1分
※鬼太鼓、神輿、芸山車など猟師町の雰囲気あふれる例祭。


【天領佐渡両津薪能】
開催日:5月6日 19:30から
開催地:佐渡市原黒724(椎崎諏訪神社能舞台)
アクセス:両津港から車で約5分
料 金:1,000円(運営協力金として)
演 目:羽衣~盤渉~

※薪能ライナーバスが運行されます(佐和田BS~金井~椎崎諏訪神社)
ライナーバスを利用する場合は、前日の17時までに「新潟交通佐渡」へお申込みください。
新潟交通佐渡 TEL:0259-52-3200 乗車運賃500円


【鼓童 佐渡宿根木公演2017】
佐渡発のパフォーマンス集団「鼓童」が、佐渡「宿根木」で、連続公演を開催中です。

開催日:4月29日~5月6日 11:00~,14:30~
開催地:佐渡市宿根木(宿根木公会堂)
アクセス:小木港から車で約10分
料 金:3,500円(中学生以上)1,500(4歳~小学生) ※当日は300円プラス


【佐渡國鬼太鼓どっとこむ】
佐渡の伝統芸能が一堂に会するイベント。地元特産品の販売もあります。

開催日:5月28日
開催地:佐渡両津湊 おんでこドーム
アクセス:両津湊より車で約1分

2017年4月27日木曜日

桜のイラスト




桜も季節が終わり、花が散ってしまいましたね。

浦佐毘沙門堂の隣、千住院の樹齢200年の垂れ桜が見ごろ(ちょい過ぎ)で、夜間もライトアップされているようです。

4月第一週に浦佐毘沙門堂に行ったときは、まだまだ何もない状態でした。

枝垂桜の幹に巻いていたのでしょうか? ゴザが河川の手すりで虫干しされていました。

桜というと花の盛りが綺麗ですが、葉桜になって、残っている花が風に飛ばされ、チラチラと散っていく姿も美しいと思います。


2017年4月26日水曜日

角田山の山野草イラスト ツバキ




先日、おとといに引き続き、角田山の山野草です。
ツバキですね。

椿は言い伝えやいわれの多い花ですが、年月を経たツバキは「化ける」という言い伝えがあるそうです。

江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕の妖怪画集「今昔画図続百鬼」に、
古い椿の木に精霊が宿り、人をたぶらかすという絵と記述があります。

この画集の古椿の霊はモコモコしていて、あまり愛らしくないです…。



浦佐毘沙門堂の前立仏がツバキの木でできていて、この浦佐毘沙門堂のツバキと同じ木で作られたという毘沙門天が新潟県各地に点在していますが
 
浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門天像の謎

人々にとって、椿という木は神聖なものだったのでしょうね。


ところで、私はツバキというと、日本昔話の「夢を買う」を思い出します。



一人の商人と絵描きが旅の途中で出会い、商人が身の上話をしていると、
絵描きは眠ってしまう。

すると、眠った絵描きの鼻の穴からアブが出てきて、
しばらくするとアブは戻って来て、絵描きの鼻の穴に入る。

目が覚めた絵描きは、不思議な夢を見たと言って
山向こうの長者の屋敷の庭に白い椿の花がさく木があり、
その側にアブがいて、木の根元を掘ると黄金が入った壺が出てきたというのだ。

商人は絵描きに「その夢買った!」と言い、金銭を渡して、山向こうへと向かう。

はたしてそこには長者の家があり、庭には沢山の椿が植えられていたが……。

 参照:まんが日本昔ばなし「夢を買う」



椿に咲く花は、白ではなく赤なんですねぇ。
何本もある椿の木に咲くのは、全て赤い椿の花。


夢を信じて、長者の家で奉公人として働き続ける商人の姿が
四季の移ろいとともに描かれます。

椿の花が咲き、白い花がなくてガッカリする。
夏の盛りに庭を掃除。秋の枯葉を掃除する。
雪が降る中、蓑笠つけて掃除をする。

何度も何度も月日が巡る。


夢を信じて努力をすれば報われるという、良いお話しです。


このお話は、佐渡島の昔話だそうですよ。

2017年4月25日火曜日

角田山の山野草イラスト カタバミ



角田山の登山路は7つのコースがあります。
今日のイラストは「湯之腰」コースに咲いていた山野草「カタバミ」です。

湯之腰コースは、越前浜にあるカーブドッチ付近から登るコースです。



ちょっと急な箇所もあるので「やや難」なコースですが、新潟市の様子が一望できますし、
湯之腰温泉で汗を流してから帰ることもできますよ~♪

2017年4月24日月曜日

角田山の山野草イラスト イカリ草、雪割草、コバイモ



今日のイラストは、新潟市西蒲区の「角田山」に咲く山野草のイラストです。

角田山は登山コースが七箇所あり、初心者から熟練者まで、それぞれが登山を楽しめます。

また、春になると雪割草が咲き誇り、イラストのようにいろいろな山野草と競うように花を咲かせます。

雪割草が咲くコースは、上記七箇所のうち四箇所。


・五ケ峠登山口⇒なだらかで登りやすく、家族向け。

・灯台登山口⇒先日ご紹介した米山や佐渡が見えます。

 柏崎市 米山の山野草 米山山開き登山

・浦浜登山口⇒五ヶ浜~大深山経由山頂へ至るコース。

・福井ほたるの里登山口⇒なだらかで登りやすい。登山口には「じょんのび館」があります♪


角田山の雪割草は4月上旬が見頃で、いまは散り果てのようです(汗)が、
新緑や他の山野草が咲いていると思います。

2017年3月30日木曜日

三国街道と小千谷の絵紙 魚沼の山のイラスト 

今日のイラストは、三国街道近くにあるFM塔付近から魚沼の町並みを望んだイラストです。 先日、三国街道についての記事をアップさせていただきました。

 ⇒三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】 

三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。

新潟県内は、三国峠~浦佐~堀之内~長岡~寺泊へと続きます。


堀之内や塩沢は十日町や小千谷とならんで、縮の生産が盛んでした。

三国街道を縮商人が反物を背負って越え、江戸へと出向いたわけです。

その他、長岡藩主、牧野備前内は川を上る鮭をとらえて、将軍家に毎年献上していたそうですが、三国街道を通って江戸へと献上鮭が送られていたと言います。

寛政8年(1796)8月には、村上藩主 内藤信敦の一行が参勤交代を行った際、三国街道を通っています。

江戸から明治、昭和初期の人々が足繁く通った三国街道。
旅人や商人の思いがつまった道なのでしょうね。

話しが戻りますが、
小千谷の縮商品は、江戸へと縮を売りにいった帰り、
江戸の浮世絵をお土産に買ってきたそうです。

この浮世絵を「絵紙」と言い、小千谷の人たちは壁に貼って楽しんだり、
ひな祭りの際に飾っていたそうです。

季節が終わってのお知らせとなってしまいましたが、
毎年2月~3月上旬に小千谷市では
この絵紙と雛人形を展示する催しを開催しています。

絵紙は色鮮やかで、江戸の人々のセンスのよさを感じます。
また、江戸の暮らしぶりがわかるので、見ていて楽しいです。

毎年違う絵紙が展示されているので、是非とも足を運んでほしいもの。

2017年3月29日水曜日

春近し コブシの花のイラスト Part2



先日アップした、コブシの花の別イラストです。
スケッチの日付が1日違いとなっておりますが、
同じ花でしょうかね?

イラストの裏に、裏山を巡回できず、さぼり気味だということが書いてありました。

2017年3月26日日曜日

春近し コブシの花のイラスト



今日のイラストは、マンサクの花……と思ったのですが、
マンサクじゃないですね。

絵の下に「マンサク」と書かれているので、マンサクかと勘違いしましたが、

よくみたら「マンサクと共に」でした。

雪で折れた枝を、自宅の水彩画用のバケツの中に入れておいたところ、
マンサクと共に開花したということでした。

蕾の様子や花からみて、コブシだと思います。

とよじいが水彩画用に使っているバケツというのは、
私か妹が小学校のときに使用していた、図工用の黄色いバケツです。

3つの仕切りがある黄色いバケツを昔使っていましたよねぇ。
中に水をいれて、グルグル回して「水が落ちな~い!」と言いながら、みんなでバケツ回ししていました。
加速が足りないと、上にあげたときに水が落ちてくるケースも。

いまの図工用バケツは、水彩画用セットの中に入っていますよね。
四角いバケツで、その中に絵筆やパレット、絵の具を収納できるようになっています。

持ち運びに便利でおしゃれですが、黄色いバケツをみかけなくなったのが寂しい感じです。

2017年3月23日木曜日

春を告げる山野草 福寿草のイラスト






小学校の卒業式シーズンですね。
サクラの開花予想がされる時期となりましたが、魚沼では雪が降ったようです。

彼岸頃、再度寒くなり、温かさが増していく。
寒暖を繰り返し、魚沼は春を迎えます。

今日のイラストは福寿草。
新春を祝う花、ということで福寿草と名付けられたと言います。

花言葉も
 「幸せを招く」
「永久の幸福」
とハッピーな意味合いのある山野草です。

漢方では、福寿草の根や根茎は心臓の薬とされていますが、
効能が大きいため、多量に摂取するのは逆に毒となります。

福寿草に触れたり、花の匂いを嗅いだりするのは全く問題ないので安心してください。
食べなければ問題ありません。

福寿草の芽がでたばかりの頃、フキノトウと間違えてしまうことがあるのだとか。

発芽の時期も同じころで、花が咲く前の福寿草はフキノトウとよくにているのです。
くれぐれも、間違えないように。

2017年3月14日火曜日

三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】

浦佐毘沙門堂の裸押合い祭や、毘沙門市について調べていたとき、浦佐と堀之内が三国街道の宿場だったと初めて知りました。


浦佐毘沙門堂の毘沙門市」の「縮の販売で堀之内とトラブル!?」

実家裏山奥方面に三国街道が通っていて、現在も散策コースになっているということも初めて知りました。
「とよじいも登っていないたかな?」と思って、イラスト在庫を調べたところ、ありましたよ~♪




三国街道の栃原峠、FM塔付近です。


※1枚の絵を2回に分けてスキャンしているため、ツギハギ部分の色が変わっています、ごめんなさい。

原画は色の変化はないので、スキャン技術とツギハギ技術を高めて、原画のままアップできるようにしたいです。




栃原峠は三国街道を堀之内宿から浦佐宿に行く途中にある峠道です。
万治元年(1658年)に、高田藩により開拓されたと言われています。


いまでも、街道の名残である、茶屋や石仏などの史跡があちこちに残っています。
首なし地蔵という、ちょっとオドロオドロしい史跡もあるようですよ。
雪が溶けたら、散策してみたいです。




余談ですが……。


三国街道途中の大峠である、群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町を越える三国峠。
こちらは、中世(鎌倉時代から安土桃山時代)ころから、存在していました。

山頂には、三国権現が祀られていますが、ここでも坂上田村麻呂が登場します!


 昔、白根山の悪鬼が上野・信濃・越後の三国に飛行して悪行を繰り返していた。
 そこで、坂上田村麻呂が討伐に鬼を討伐に訪れ、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請した。


浦佐毘沙門堂も807年(大同2年)に坂上田村麻呂が建立したと言われています。
東北に向かうとき、坂上田村麻呂も三国峠や三国街道を通ったのでしょうかね。


毘沙門堂と坂上田村麻呂の関係については、こちらの記事で♪
浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係




さて、話を三国街道に戻します。


三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。

三国街道という名前の由来は、利根郡新治村の三国峠を通過していることからつけられたと言います。


江戸幕府にとって、三国街道は佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀を運ぶための重要なルートでした。

金銀を産出する佐渡との連絡路として、三国街道は北国街道、会津街道と並んで佐渡三道に定められていました。


街道の整備を行ったのは、江戸時代に天狗岩堰用水の延長の備前堀を手がけた、伊奈備前守忠次。

伊奈氏は代々、徳川幕府の土木をつかさどった家柄です。


幕府直轄で宿駅制が実施されたのが慶長14年。
そして、翌年15年には宿駅の制度がほぼできあがりました。


三国街道は中山道を高崎で分岐し、

金古→渋川→金井→北牧→横堀→中山→塚原→布施→

須川→相俣→吹路→長井→(三国峠)→浅貝→

二居→三俣→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→

浦佐→堀之内→川口→妙見→六日市→長岡→脇ノ町→

出雲崎→山田→寺泊と続いた道筋です。


距離にして、高崎から浅貝まで20里
浅貝から長岡まで28里


1里が約3.9kmなので、
高崎から浅貝までが78km、朝貝から長岡までが110kmくらいですね。


並足での所要日数は
江戸から高崎 3日
江戸から浅貝 5日
江戸から長岡 8日


もっと時間がかかるのかなぁ?と思っていましたが、20日ほどで江戸から長岡まで行けるのですね。

とはいえ、江戸から長岡まで歩くとしたら、現代人はもっと日数がかかりますよね、きっと。
昔の人たちは足腰強い、尊敬します!

現代人の私は、歩いて三国街道巡りは厳しいですが、車という文明の力を借りれるので(笑)
車を使って回ってみたいなと思っています♪

ここで、プチ疑問が(*^_^*)

「魚野川や信濃川が流れているんだから、船で移動すればいいんじゃないの?」

と思いますよね。実際、船での移動も行われていましたが!
川が流れる方に進めば楽ですが上るのが大変ですよね(汗)


六日町から魚野川下流には河岸場が設定され、下りの場合は船を利用することが多かったそうです。

上りは歩いたほうが楽だったようです。


金銀の運搬だけではなく、商人や武人など様々な人が三国街道を通って江戸と越後を行き来していました。

その人々の物語については、また後日。

2017年3月3日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 ささら擦りについて



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のワンシーンです。

●浦佐毘沙門堂の写真については
浦佐毘沙門堂の境内【写真あり】をご参照くださいね。

さて先日、ササラ擦りのイラストをアップしました。
裸押合い祭のイラスト 浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係


ササラすりというのは、祭りのクライマックスに行われる行事です。

押合いと奉納品の参献と撒与品が繰り返し行われた後、夜11時頃にササラすりが始まります。
「サンヨウ、サンヨウ」の文句に合わせ、年男がササラをすり上げます。

簓(ササラ)とは、民族芸能や祭りなどで使われる楽器のようなものをさします。
様々な形がありますが、竹の先を細かく割って茶筅のようにしたササラや玉すだれのような形をしたものがあります。

浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のササラは(上記イラストのものと形状が異なりますが)竹でできていて「擦りササラ」と「受けササラ」があり、切り込みの形状が擦りと受けで異なっています。

擦りササラは縦に13本の切れ込みがあります。

13という数字は、毘沙門天の眷属である、五大鬼神の「五」と夜叉八大将の「八」を合わせた数字です。

五大明王
・不動明王
・降三世明王
・軍茶利明王
・大威徳明王
・金剛夜叉明王


夜叉八大将(八大夜叉大将)
・宝賢夜叉
・満顕夜叉
・散支夜叉
・衆徳夜叉
・應念夜叉
・大満夜叉
・無比力夜叉
・密厳夜叉

そして、受けササラには、横に30本の刻みがされています。

天地に刻みを入れ、その中に28本の刻みをいれるということです。

毘沙門堂の山門の二階には、毘沙門天の眷属である二十八使者の像が安置されています。

この擦りササラと受けササラを十字にクロスさせ年男は真言密教を唱えながら、一年の豊作を祈願します。

ササラは内側に擦ると凶作に、外に擦ると豊作になることから、外へ外へと擦ります。


唱える呪文は他人に聞こえてはいけないので、年男は声に出して唱えません。
また、声が漏れないように、音頭取りの人たちが、音頭歌を歌っているともいわれています。

このササラは、坂西家の当主が代々、奉納する習わしとなっています。

坂西家は江戸時代に大割元役を務め、裸押合い祭では村の「重立の旦那」として尊敬された特別な家。


そして、坂西家の当主の代がかわるごとに新しいササラを作りますが、ササラをつくる竹は京都石清水八幡宮の竹を使用し、制作は普光寺の大工棟梁が行います。

できあがったササラを、坂西家の御当主が毘沙門天に奉納するわけです。


音頭取りの家も決まっていて、鈴木家が代々世襲しており、脇音頭をとるのは、分家や鈴木家に縁のある人に依頼するそうです。

鈴木家は江戸時代、大割元・坂西家の祐筆であったという伝承が残っています。

余談ですが、3月3日当日は、坂西家の御当主は「藤原の姓を名乗り」裃(かみしも)を来て、大祭に参加するとのこと。

さあ、そして。

ササラ擦りが始まると、押合いをしていた人々が、年男の周りを輪になってとりかこみます。
輪は三重四重となり、ぐるぐると年男の周りを回り、音頭取りの人々が、音頭歌を歌います。

以前は、音頭取りの人々ではなく、年男がササラを擦りながら音頭をとったと、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれています。


当月三日に年男参ったりな。
立ったこそ道理や門の松がまっさるわ。
まんがわらに手かけて春が来たとうのばら。
わいらに着しようとて白い管の笠。
黄金の花が咲く四つ隅のように。
たーむこそ道理や実が入るとうて。
立ったこそ道理や米が降るとうて。


この七つの文句を七回ずつ繰り返し、四十九回歌います。
一句一句の間に、年男の周りを回る人々が「サンヨウ、サンヨウ」と合いの手を入れます。

四十九回の歌が終わると「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられ、輪を描いていた群衆が二つに割れ、年男が人々の「来い来い来いよ」の声に導かれて、内陣に入りササラを本尊の厨子に納めます。

その後、御灰像十二体を撒与して祭りは終わります。

祭り全体が一つのストーリーになっているような感じですね。

ラストの「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」がですね……。
なぜ、浦佐は山が多いところなのに、海を描写するような文句なのかというのが謎です。

また、人波が2つに別れるというのと、ささらを厨子に納めるという行事が……。
モーセの出エジプト記と契約の箱みたい──と思いました。

そして、黄金の花が咲くというのがですね――。

年男、井口家のご先祖が「毘沙門天像を運んで浦佐にやってきた」という言い伝えもありますしね。

浪漫があるお祭りですよね。

【2019年3月追】
浦佐の裸押合い祭り、毘沙門堂が製鉄に関係があるのではないか、という民俗学の本を読みました。現在、調査中♪ネコしきが製鉄に関係ありそう。
毘沙門天は製鉄に関係しますもんね。



2017年3月1日水曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 多聞天額毫を得た人物「弘賢」の行跡


こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天裸押合い祭り際に設置される大蝋燭です。
毘沙門堂内の四本の大きな柱の上に、蝋燭を設置します。

四本柱の蝋燭は、浦佐・長岡・小千谷・見附から奉納されるそうです。


さて、先回は毘沙門市の縮売買の件を書きました。
今日はその続きを書かせていただきます。


嘉永元年(1848年)頃、毘沙門市で縮の買取を行ったことから、堀之内との間でトラブルが起きました。

浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張り、その中で近隣から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】

菊紋入りの幕が張られていたら、うかつにその中には入れないでしょう。
時代劇の水戸黄門が持っている印籠みたいな感じかな?

なぜ普光寺に菊紋入りの幕があったのか? ということですが。
それには、文化十二年(1815年)に普光寺の住職についた弘賢が関係しています。

弘賢は毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀した人物で、
三十三番観音だけではなく、数々の行跡を残しています。

調べたところ、多聞天額毫(がくごう)も弘賢が得ています。
この方は、毘沙門天信仰に力を入れたようですね。

山門を建立する際、住職は後任の賢空に変わっていましたが、弘賢の力が影響を及ぼしていたようです。

話しを、菊紋入りの幕に戻します。

弘賢は文政三年(1820年)から文政八年(1825年)にかけて、京都嵯峨院から、菊のご紋使用許可、菊紋の幕、多聞天額毫などを得ています。

弘賢は普光寺の住職についた二年後に、新義真言宗(真言宗の宗派のひとつ)を統括する「江戸四箇寺」のひとつ「真福寺」に移り住職となります。

その後、普光寺の塔頭寺院のひとつ文殊院の住職代行につきます。

塔頭(たっちゅう)というのは、高僧の墓という意味です。
えらいお坊さんのお墓の近くに、弟子たちが小庵をたてて墓守をしていたのですが、小庵が寺として独立したものが塔頭寺院となりますが、寺院の敷地内にある別の坊をさすこともあります。

普光寺には、文殊院をはじめ千手院、花蔵院、宝授寺、地蔵院、西泉院という六箇所の寺院が存在していましたが、江戸から明治期にかけて廃絶し、現在残っているのは千手院のみとなってしまいました。

参考までに六寺院の本尊は──。

千手院⇒千手観音菩薩
文殊院⇒阿弥陀如来
法授寺⇒薬師
花蔵院⇒正観音
西泉坊⇒弥陀
地蔵院⇒地蔵

この六箇所以外にも、昔はもっと塔頭寺院が塔頭があったようです。

弘賢は普光寺の寺宝となる仏舎利、弘法大師の真蹟(しんせき:実際に書いたとされる)大般若経、足利尊氏・同義満書状などを収集し、寺に納めました。

これは、弘賢が真福寺に関係していたから行えたことだと言われています。

また、裸押合い祭で井口家が行場に掲げる毘沙門曼荼羅も、攝州本山寺の毘沙門曼荼羅を写し取り、弘賢が寺に納めたそうです。

毘沙門曼荼羅というのは、毘沙門天と毘沙門天に使える28の夜叉を描いた曼荼羅。
浦佐毘沙門堂では、山門の楼上に毘沙門天二十八使者の彫像が安置されています。

弘賢がどんなビジョンを持って、毘沙門堂や普寺光を形作ろうとしていたが気になります。

曼荼羅の絵を見ていてフト
押合い祭も人々が輪を描くわけだから、体曼荼羅とも言えるかも……と思いました。

話があちこち散乱してしまいましたね。すみません。
毎度のことか(^^;)

それはそうと

調べれば調べるほど、浦佐の毘沙門堂は興味深いと感じました。
今後も追跡調査していきたいと思います。

2017年2月24日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。

浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。

今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。

話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。


毘沙門堂市と多聞天祭礼市


大同2年(807年)に、坂上田村麻呂が建立されたと言われている毘沙門堂がある南魚沼市浦佐は、信濃川に通じる魚野川の両岸に位置する町です。

現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。

浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。

裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。

また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。


毘沙門天と多聞天について【余談】


浦佐毘沙門堂の入り口の扁額にも「多聞天王」と書かれていますが、多聞天というのは、毘沙門天のもう一つの名前です。
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。

余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。

話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。

毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。

ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。

普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。

毘沙門堂の毘沙門市


さて、毘沙門堂付近で開催されていた市ですが、毘沙門堂の市に足を運べば、なんでもそろうと評判だったようです。

ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。

市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。

徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。

縮の販売で堀之内とトラブル!?


この毘沙門堂の市とは別に、現在の魚沼市堀之内では4月に「縮市」が開催されていました。

堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。

江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。

堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。

十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。

ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。

ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。


ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!


浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】


ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。

起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。

菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。

菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。

なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。