2018年6月8日金曜日

一村尾太々神楽面を作った、南魚沼の名工「北川岸次」とは?



一村尾 太々神楽


今日のイラストは、南魚沼市一村尾地区の太々神楽。

江戸時代より伝承されている神楽で、毎年9月中旬に開催される「十五夜祭」で奉納されます。


明治26年(1893年)からは、32面の神楽面を使った26座の神楽を奉納。

32面のうち、27面は日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次が手がけたものです。



南魚沼の工匠「北川岸次」とは?




北川岸次は船ヶ沢(当時)出身の工匠で、浦佐の毘沙門堂裏手に銅像が建っているので、ご存知の方も多いことでしょう。

北川岸次銅像(浦佐毘沙門堂)

台座脇には以下のような説明が記されています。

北川岸次は天保七年(1836年)船ケ沢の小杉に生れ、安政元年(1854年)浦佐北川家に養子に入る。
幼少より手先器用にして工匠となり、毘沙門堂等に数々の偉作を残す。
明治五年(1872年)八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す。
その模型を携え特許出願のため上京した折政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる。
また、我が国初の人体解剖模型を完成。
さらに石膏蝋細工等の技術により医学研究分野に貢献す。
明治十五年(1882年)八月三日病死す。
享年四十七才。
昭和三年十一月十日(1928年)生前の功により贈従五位を受く。


北川岸次銅像説明文

ザックリすぎて「ふ~ん」という感じで流し読みしてしまうのですが、探っていくと北川岸次が素晴らしい工匠であったことがわかりました。

例によって、まだ調べ途中ですが……。

銅像に記されている説明文に沿って、北川岸次の功績を詳しく説明していきますね。



手先器用にして工匠となり偉作を残す




船ヶ沢新田に生れた北川岸次は幼名「小萬治」のちに「清賢」と名前をあらためています。

子どもの頃から手先が器用で、安政元年(1854年)19才のときに北川家の養子となり、近考斉岸次と名乗るようになりました。

岸次が器用であったことを物語るのが、「清賢」を名乗っていたころに制作した、神社の向拝や欄間、仏壇などの作品。

荒山十二神社の向拝裏に、清賢の署名があるそうです。

その他、穴地十二社の拝殿の大戸(上には石川雲蝶の彫刻あり)も岸次の作品です。

そして、北川家に養子に入った後の明治元年(1868年)、一村尾の若宮八幡宮の神楽面27面を作成しました。



八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す




一村尾の神楽面を作成したのと同じ頃、北川岸次は浦佐の天文数学者・柳與三次に学びながら、渾天儀(こんてんぎ)を作成します。

渾天儀(こんてんぎ)というのは、天球をかたどった模型で、古く中国で天体の位置測定に用いられた器械です。

渾天儀(国立科学館所蔵)

また、この頃、岸次は八色原の開墾に目を向けます。

八色原は以前から開田が試みられていた地域でしたが、水無川の氾濫で幾度となく土砂が流失し起伏が多いため開墾できずにいました。


明治5年7月のこと。

岸次は八色原を開墾んするために、渾天儀をもとに動力水車の開発に取り組みます。

そして、政府に補助金の申請を行うため、開墾計画の企画書と動力水車の模型を携え上京。

このとき、岸次の技能に注目した政府は、岸次に活動の場を東京に移すように勧めます。岸次は拠点を東京に移し、宮内省や工部省などで西洋建築や家具の製作を行うようになります。

岸次が申請した八色原の開墾のための動力水車はどうなったのでしょう?

八色原の開拓については、次のような記述があります。

八色原の開拓は戦前から何度も取り組まれたけれど成功することはなく、昭和53年にパイプ灌漑が完成。その後、用水路や耕作道などが整備された。

昭和という年号からもわかるように、岸次の動力水車は実現することはなかったようです。

岸次の才能を買い、政府が岸次を東京に留めたのか。
開発のための助成金を支払うことを躊躇し岸次を東京に留めたのか。

前原一誠の信濃川分水計画が明治政府に受け入れられなかったことが頭をよぎります。

平成の八色原



政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる




動力水車の模型を持って東京に出向いた岸次は、その才能を認められ、西洋建築や家具の製作を行うようになります。

実際、北川岸次が東京でどのような物を製作していたのか? これについては、岸次の息子である「北川千次」が執筆した文章に次のような記述があります。

陸軍士官学校は「エラカ」の彫刻を都下の彫刻者に募るも、未だあらざれば能く刀を下す能はざるを以てなりと、君(岸次)之れに鷹じて曰く、我が技、稚拙なると雖(いえど)も、聊(いささ)か期する所あり、試みに之に當(あた)らんかと、細念深考遂に之を制作し、士官学校の用ゆる所となれり。

参考:「東京模範商工品録」明治40年6月出版 東京の工業製品カタログ

東京模範商工品録表紙

岸次は陸軍士官学校で「エラカ」の彫刻を手がけ、同校のイスやテーブルなども制作したと千次は書いています。

ちなみに、この「エラカ」を調べてみたのですが、なんのことかわかりませんでした。人の名前なのか、技工なのか、場所なのか物なのか……。



我が国初の人体解剖模型を完成




岸次が陸軍士官学校での仕事に励んでいた頃、開成学校が理化学に関する模型の制作を懸賞をかけて募ったと千次は同文章に書いています。

千次は岸次が「洋式彫刻を士官学校の「エラカ」に倣ふて能く模擬し得たり」「模擬難模型難を叫ぶは、自ら侮るものにして面して外人に對(たい)し我が工藝界の無能を告白するもの」と一念発起して、人体模型の作製を引き受けたと説明しています。

人体模型制作で岸次は苦労を重ねたようで「苦心惨憺、遂に木彫の型を作り、之に漆型を施して以て模造するの制作法を案出せり」と制作の模様を千次は綴ります。

そして、ついに人体模型が完成。

「其の創意の結果は好績にして、彼の輸入品と相對する」

「其の功績や甚だ大、我が学術界、工藝界の歴史上に於て特筆大書に値ひす」

千次は父・北川岸次の功績を絶賛。

実際、岸次の人体解剖模型は、内蔵や血管、骨格などが精巧に再現されており、それぞれが取り外しができ、身体の仕組みを知るのに適した模型でした。

人体解剖模型は、千次の会社で制作され、医学の発展に大きく貢献したと言います。



北川岸次が手がけた太々神楽面




岸次が作成した人体模型は大正12年(1923年)に浦佐尋常小学校に寄付
され、現在は八色の森公園内の「むかしや」に展示されています。

「むかしや」さんに行くと、奥の方にリアルな人体模型が置かれていて、小学校の理科室で人体模型を初めて見てびびったことを思い出すのは、私だけではないはず……きっと。

先にご紹介したように工匠・北川岸次が手がけた作品は、南魚沼市の各地に点在しておりますので、岸次巡りができますね。

浦佐の毘沙門堂で岸次の銅像を見て、やいろの森公園の「むかしや」さんで人体模型を見てびっくり!

十二神社に参拝して、ホッコリ。

若宮八幡宮は9月に十五夜祭なので、秋の訪れを待ちましょう。

でも、岸次の作成した神楽面が見たいというかたは、魚沼市の「ギャラリー月うさぎ」さんで、岸次のお面や神楽の様子を写した写真展が開催されています!

写真で予習。秋の神楽を見る。いかがでしょう?

展示は6月の土日と7月1日(日)までですので、おはやめに。



2018年6月7日木曜日

2018年カレンダー 6月 十文字小屋のイラスト

2018年6月のカレンダーイラストは「十文字(じゅうもんじ)小屋」です。
5月末から6月上旬にかけて、美しく咲き誇ったシャクナゲの花が小屋を訪れる人々を迎えてくれます。

十文字小屋は十文字峠(じゅうもんじとうげ)にある小屋です。

十文字峠とは、長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠。標高1,962m。また中央分水嶺でもあり、埼玉県側は荒川、長野県側は千曲川の流域である。 埼玉県側斜面に、十文字小屋がある。
wikipediaより引用

「中央分水嶺」という言葉が出てきましたが、中央分水嶺とはなんでしょう?

中央分水嶺とは、中央分水界とも言われています。

雨が地上に降ったとき、山に降った雨は山頂から下り、川となり海に注がれます。
日本列島では、大きく分けて日本海と太平洋、このどちらかに雨が流れます。

どちらの海に向かうか、その境界が日本列島を南北に貫く「中央分水嶺(中央分水界)」となります。



日本山岳会が創立100周年を記念して、中央分水嶺の全区間踏破を企画。
三角点、山頂、峠などを歩いて確認を行ったそうです。

調査によると中央分水嶺は、十文字峠だけではなく野麦峠、発荷峠、石北峠など30もの峠を通過しています。

山の嶺を左右に分かれて雨が流れていくのがはっきり見えるというわけではないのかもしれませんが、そのような様子を見てみたい気もしますねぇ。

2018年5月17日木曜日

2018年カレンダー 5月 荒沢岳のイラスト

5月も中旬を過ぎてしまいましたが(汗)

2018年5月のカレンダーをアップします。

山は新潟県魚沼市にある「荒沢岳」(標高1969m)

銀山平に近く、日本二百名山に数えられる山です。

山頂からは、越後三山(八海山・駒ヶ岳・中ノ岳)平ヶ岳、守門岳、浅草岳、未丈ヶ岳、巻機山など魚沼に馴染みのある山々を見ることができます。

2018年3月5日月曜日

2018年3月2日金曜日

浦佐毘沙門堂 大ローソク 柱上の人



浦佐毘沙門堂 裸押合い祭りの大ローソクを本堂四隅に上げたときのイラストです。
ロウソクを支える方、炎の熱で熱そうですね。

浦佐毘沙門堂大ローソク

いよいよ、今晩、前夜祭ですね。
浦佐毘沙門堂、裸押合い祭りで使用される大ローソクのラフ画です。

毘沙門堂の四隅に飾られます。

2018年2月28日水曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭


浦佐の毘沙門堂、3月3日のお祭りのワンシーンです。

大きなロウソクが使用されることから「大ローソク祭り」とも言われているそうです。

重さは30~50kgで高さは1mほど。

浦佐の「北村ローソク店」さんが作成、ローソクに描かれる文字も書かれています。

いよいよ、今週末が押し合い祭ですね。

浦佐の毘沙門堂の様子は、昨年の春に訪れた様子を記事にしているので、行かれる方はよかったら参考にしてみてくださいね。

【毘沙門堂の写真掲載記事】
浦佐毘沙門堂に行ってきました!

2018年2月27日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭


浦佐の毘沙門堂、裸押し合い祭りのワンシーンです。

2018年の裸押合い祭りは

3月2日(金曜日)前夜祭
午後6:00~8:00 祈祷
午後8:00~ 点火式

3月3日(土曜日)大祭
午前8:30~ 稚児行列、福餅撒与など
午後5:00~10:45 押し合い、弓張撒与、福餅撒与など


2018年2月18日日曜日

八海山~中ノ岳縦走登山メモ


とよじいのイラストを整理していたら、面白いメモが出てきました。

八海山~中ノ岳への縦走登山計画書のようです。

最後に駒ノ湯入って帰宅。

日付が見当たらないので、いつ頃の登山計画かわかりませんが、
このときに書いたイラストなどが出てきたらアップします。

2018年2月16日金曜日

八海山 女人堂

Mt.Hakkaisan

今日のイラストは八海山、女人堂手前です。

八海山は古くから霊山として崇められている山です。

中臣鎌足がご神託をうけ、御室に祠をつくったと言われています。

その後、役行者小角や弘法大師が山頂で修行されたとも伝えられているそうです。

それにしても、豪華なメンバーだ。

豪華なメンバーが修行したということもあり、霊峰霊場として八海山信仰が展開され、多くの修行者が訪れました。

女人堂というのは、山岳信仰により女性が立ち入ってはいけないということで、女人堂よりも先は女性は登ることができませんでした。

【八海山を訪れた修験者の話⇒八海山信仰と十二山神社の関係性

霊峰 八海山 簡易MAP

八海山ロープウェーサイトに掲載されているMAPに女人堂の位置が書いてあるので、確認してみてください。

ロープウェーが4号目で、女人堂は6合目。
その先、薬師岳8号目、千本檜小屋9号目。
八ツ峰と続きます。

八ツ峰は何度みても、おっかねぇなぁ。と思います。

八海山が修験の山。霊山。というのがわかります。

しかし、とよじい。
イラストの日付が2月ですが、雪深いときによく八海山に行ったとおもいます。
関心、関心。

おっかねぇ(笑)

2018年2月10日土曜日

2018年カレンダー 2月 巻機山のイラスト


2018/02巻機山
Mt.Makihata
2018年2月のカレンダーです。
もう、2月も中旬になりますが(汗)

カレンダーのイラストは、南魚沼市と群馬県みなかみ町にまたがる、巻機山です。
標高1967mの巻機山は四季を通じて登れる山で、登山客に人気があり登山のリピーターが多いと言われています。

巻機山の名前の由来はこちら
中大兄皇子は気象予報士だった!? 巻機山のイラスト
で詳しく書きましたが、巻機山の御祭神は「天満巻機千里姫」。

山に機織りの女神がいるという昔話や伝説も残されています。

南魚沼市は昔から織物が盛んだったこともあり、地元の人々は巻機山を機織りや養蚕の神として崇拝しています。

そのほか、巻機山の山頂にたなびく豊幡雲(とよはたぐも)が山にまきついているように見えることから「巻(マキ)」の文字がつけられたという説もあります。

この、山頂に巻きつく雲。「豊幡雲(豊旗雲)」とはどのような雲なのか。

晴れを前兆か、雨の前兆か。

こちらも、巻機山の名前の由来で書かせていただきましたので、よかったら読んでみてください。

2018年1月5日金曜日

Mt. Hakkaisan&Hakkaisan Sake

Mt.Hakkaisan


新潟県を代表する日本酒「八海山」。
淡麗旨口で人気のお酒ですが、その名の由来になっている山が南魚沼市にある八海山です。

山頂付近には8つの険しい峰があり、上ったり下りたりを繰り返しながら頂上を目指します。

登山をする人にも、景観を楽しむ人にも愛されている霊峰「八海山」ですが、先にお伝えした清酒「八海山」に魅せられた海外の方がいます。

2013年2月に八海山ブランドのアンバサダーに任命された、ティモシー・サリバンさん。

ティモシーさんは、以前からNYで日本酒の啓蒙活動を行われていたとのこと。

ティモシーさんは、NYの寿司屋で「純米吟醸 八海山」を飲んで、八海山のファンになったそうです。

八海山の味に感銘を受けたティモシーさんは、日本酒への関心をより深め、もっと日本酒を知りたいと思うようになったといいます。

そして、世界中の酒蔵や酒屋、日本酒を取り扱うレストランの情報が掲載されたWEBサイトUrbanSake.comを立ち上げます。

その後、ティモシーさんの活動を知った八海醸造がティモシーさんにアプローチ。
蔵に来てもらったり、酒造りを体験してもらったり、文化交流を通じて八海山への理解を深めてもらったそうです。

2016年には、秋から春まで蔵人と同じ環境で酒造りを体験。

ティモシーさん自身は「私には酒造りの才能はないけれど、より良い日本酒の教育者となれる」とおっしゃっています。

灯台もと暗し。

日本酒の良さを本当の意味で日本人は理解していないのかもしれませんね。

NYからの新しい風をティモシーさんが運んできてくれたこともあり、
八海山の活動展開はさらに広がりを見せます。

「2017 Ultimate Wine Challenge(NYワイン品評会)」での最高位Chairman's Trophyの受賞や「2017 Los Angeles International Wine Competition(LAwain ワイン品評会)」などでも高い評価を獲得。

世界に八海山の良さが伝わるようになりました。

これからも、展開を拡大する清酒「八海山」の様子を、霊峰「八海山」は見守っていてくれることでしょう。


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