2019年1月8日火曜日

りんごかもしれない




りんごかもしれない。

ヨシタケシンスケさんって知ってる?

2018年末。久しぶりに会った友だちから、聞かれました。

ヨシタケシンスケさん、知っていますか?

子どもに大人気の絵本の作者さんだそうです。

友だちいわく「淡々とした文章に、さらっとした漫画のようなタッチの絵が書いてある」とのこと。

でも。

子どもたちに大人気で、学校の図書館ではヨシタケさんの絵本シリーズが、貸し出しの順番待ちでなかなか借りられないというのです。

気になりました。ヨシタケシンスケさん。

そこで。

2019年年明け。ヨシタケシンスケさんの絵本を読んでみました。

【りんごかもしれない】


テーブルの上に置いてある1つのりんご。このりんごについて、男の子がいろいろと考えます。
これはりんご。でももしかしたら、りんごじゃないかもしれない……。

ヨシタケさんのさらっとした漫画のようなタッチの絵が、男の子の想像を描き出します。

単純であるようでいて、奥が深く。哲学チックな絵本です。

さて。

じつは、もう一冊。2018年末から読んでいる本があります。

【結局、人生はアウトプットで決まる】


書店のビジネス書コーナーで
「マイクロソフト伝説のプログラマーが明かす」
「AIが職を奪う時代のセルフブランディング」
の帯に心引かれ購入。

Windows95、Internet Explorer3.0/4.0、Windows98のソフトウェアの基本設計・設計思想を生み出すプログラマーを務めたソフトエンジニアリングの中島聡さんの著書です。

こちらの著書の中に、中島さんが小学校のときは国語が嫌いで、文章を書くのが下手だと思い込んでいたというエピソードが書かれています。

作文や読書感想文で「自分で見たこと、感じたことを素直に書きなさい」と言われると、子どもたちは本音を書いても○がもらえないと察し

「空気を読み、なるべくウソにならないように本の内容や遠足での出来事をだらだらと書きつらねた挙句、最後に「面白かった」などという陳腐な言葉が量産されることになります」本文より抜粋。

中島さんは、作文の授業で子どもたちに出すべき課題として「情報を伝える描写力を求める内容」(文字数を制限した上で)をあげています。

りんごを見たことがない人に、りんごとはどういうものかを説明する内容などですね。
※本文ではランドセルについての説明が例文として掲載されています。

ヨシタケシンスケさんの絵本では、男の子がりんごについて「かもしれない」という考えで自由に発想を広げています。

中島さんの書籍では、感想文や作文を書くとき、子どもたちが「何を感じたかというセンスで自分が評価されるのではないか」という不安を抱き、多くの子どもたちがたぶん「良い成績を取るために感想をでっち上げる」という行動に走っている(仮説)と書かれています。

ここで今日のOTIです。

ヨシタケシンスケさんの絵本が子どもたちに今大人気。

子どもたち。発想の羽を広げているのかな? どんな、作文や文章を書くようになるのか、ちょっと楽しみではないですか?

子どもたちは、未来を感じて、ヨシタケシンスケさんの絵本を選び、中島さんのおっしゃるような文章の書き方を実践するベース作りをしているのかもしれませんね。

AIに奪われない、セルフブランディング。

感覚的に世界や未来に通じる道を見抜き、自分で舵取りをしながら新世界に進んでいるのでしょうね。

感想文でっち上げ犯の私が言うのもなんですが(笑)

2018年12月12日水曜日

12月12日 泥棒よけのお札 【八海山神社火渡りのイラスト】

八海山神社火渡り
12月12日は「山の神の日」として、過去に記事を書いてきました。
山の神について

12月12日は山の神の日なので、山に入らない方がいいというのが習わし。

12という数字が神聖なもので、山の神が出産する日でもあるので、マタギの人たちは12日を山の神の日として、入山を禁止していたそうです。

一年に12回ある12日も、
12月12日は「しまいの山の日」として、神聖な日とされています。
※ちなみに、1月12日は「はじまりの山の日」として、こちらも、神聖な日です。

さて、12月12日。

京都や大阪では、玄関や勝手口に「12月12日」と書いた紙を逆さにはると、泥棒が入らないという言い伝えがあるようです。

12歳の子どもにお札を書いてもらうといい。12月12日生まれの人に書いてもらうといい。
など、風習がいろいろあるようです。

なんでも、12月12日は天下の大泥棒、石川五右衛門が釜ゆでにされた日だから。
もしくは、石川五右衛門が生れた日だから。

12月12日と書くのだそうです。

山の神と、石川五右衛門。泥棒除け。

12月12日。極まる数字の12を昔から大切にしてきたのですね。

2018年6月10日日曜日

ねぶたの由来は「眠り流し」ではない? ねぶた祭イラスト

ねぶた祭


今日のイラストは青森ねぶた祭の「ねぶた」です。

ねぶたというのは、練り物の「灯籠」(山車)のことですが、青森のねぶた祭の由来については「青森ねぶた祭オフィシャルサイト」の「知る」「ねぶたの由来」に次のように書かれています。

青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。

七夕祭では、7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流していたそうです。

それが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れているとのこと。

ねぶたは、禊ぎ払えの祭なのですね。

「ねぶた(ねぷた・ねふた)」というのは

・東北地方や信越地方⇒「ネンブリ流し」
・関東地方⇒「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」

などの方言で「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」になまって変化したと言います。


●眠り流しとは?



「眠り流し」というのは、睡魔を払う行事で、七夕のとき水浴をしたり形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりするものです。

秋田県横手市では、8月6日に木と稲わらで作った小舟が町内を練り歩き、崎川原にくり流す「ねむり流し」という祭が行われています。

睡魔を払うということは、庚申信仰にも関係しているのかもしれません。

庚申の日、人が眠った後、体内にいる虫が閻魔大王に報告に行くのを止めるという言い伝えです。

●柳田国男が紹介する、ねぶたの由来



ねぶた祭の由来は「眠り流し」にあるとのことですが、それが正解というわけではなく、ねぶたの由来、言葉の意味は別にあるとも言われています。

明治時代、柳田国男がその著書の中で、各地の「眠り流し」を紹介し、その中に青森「ねぶた祭」も描かれていたことから、青森のねぶた祭は「眠り流し」の祭りであるという説が広まりました。

ただし、柳田は青森の「ねぶた」が「眠り流し」由来ではないとする説を唱える人もいることも記しています。

青森県のネブタの研究者としては、棟方悌二氏が最も著名であった。
この人の意見は日本風俗志にも出ていて、十分に穏健なるものであったが、なおこの一語の意味を明らかにし得なかったために、今に至るまで地方の通説を、覆すことに成功していない。
最も人望の多い通説は、田村将軍がこのネブタを催して、山に隠れている蝦夷の賊を誘い出し、退治をしたのに始まるというもの、次には同じ策略を以て引捉えた夷民を選別して凶猛なる者は対岸へ放流し、忠順なる者のみを止住せしめた。


棟方悌二氏は弘前中学校で教鞭をとられた方で、郷土史を研究され、陸奥史談会を創設。著書に「弘前教育史(藩政時代)」などがあります。

田村将軍というのは、坂上田村麻呂 のことですが、蝦夷討伐の任務の際、敵を油断させるために、笛太鼓、灯籠ではやしたてたことが、ねぶた祭の由来であるという説です。

余談ですが、蝦夷、阿弖流為(あてるい)は、越後一宮「弥彦神社」(にゆかりがありそうと勝手に推測している)、魚沼神社の御祭神である阿彦と通じるものがあります。
祭り(祀る)ことで、慰霊。でしょうかね。

話を、柳田国男の「眠り流し」に戻します。

一方にネブタは蕃語(ばんご)ならんという説があって、これがまた近頃まで続いていた。

蕃語(ばんご)というのは、えびす。また異国の言葉とのことで、えびすは蝦夷(えみし)となります。


●柳田国男の言い分



柳田は青森の「ねぶた」が「眠り流し」由来ではないとする説について記したのち、次のようなことを言っています。

これらの諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない。
私はただ現在のいわゆる郷土研究が、もしわが郷土を視て他を省みなかったならば、結果は概ねかくの如くなるであろうということを、例示するだけの小事業を以て、満足しようとしているのである。

いろいろな説があるけれど、どれが正しいのか決めるのは、私の役割ではない。
でも、他の(日本各地)の「眠り流し」の事例をみてごらん。
青森の「ねぶた」も他地域の「眠り流し」と同じようだよ。
それを知らずに郷土の研究だけをして、持論を唱えているんじゃだめだよ……
そんな風に、戸皮肉っぽく書いています。

けれど、郷土の歴史は郷土にいなければわからないと思いますし。

多きものに同調して、諸々が上書きされるということもあるでしょう。

以前、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在していると書きました。⇒浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係

蝦夷征伐の際、坂上田村麻呂が立ち寄った各地で寺社が同じ年に建立されていますが、同年に建てられるというのも奇妙な話です。

民俗学の創始者である柳田国男が「ねぶた=眠り流し」案を呈しているわけですから、眠り流し説が通説となる流れが生まれますよね。

とはいえ、柳田説も「諸説」のうちの一つであり「諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない」と彼自身が言うように「ねぶた=眠り流し」なのかはわからないわけです。

ねぶたの由来。もう少し追っていきたいと思います。

2018年6月8日金曜日

一村尾太々神楽面を作った、南魚沼の名工「北川岸次」とは?



一村尾 太々神楽


今日のイラストは、南魚沼市一村尾地区の太々神楽。

江戸時代より伝承されている神楽で、毎年9月中旬に開催される「十五夜祭」で奉納されます。


明治26年(1893年)からは、32面の神楽面を使った26座の神楽を奉納。

32面のうち、27面は日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次が手がけたものです。



南魚沼の工匠「北川岸次」とは?




北川岸次は船ヶ沢(当時)出身の工匠で、浦佐の毘沙門堂裏手に銅像が建っているので、ご存知の方も多いことでしょう。

北川岸次銅像(浦佐毘沙門堂)

台座脇には以下のような説明が記されています。

北川岸次は天保七年(1836年)船ケ沢の小杉に生れ、安政元年(1854年)浦佐北川家に養子に入る。
幼少より手先器用にして工匠となり、毘沙門堂等に数々の偉作を残す。
明治五年(1872年)八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す。
その模型を携え特許出願のため上京した折政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる。
また、我が国初の人体解剖模型を完成。
さらに石膏蝋細工等の技術により医学研究分野に貢献す。
明治十五年(1882年)八月三日病死す。
享年四十七才。
昭和三年十一月十日(1928年)生前の功により贈従五位を受く。


北川岸次銅像説明文

ザックリすぎて「ふ~ん」という感じで流し読みしてしまうのですが、探っていくと北川岸次が素晴らしい工匠であったことがわかりました。

例によって、まだ調べ途中ですが……。

銅像に記されている説明文に沿って、北川岸次の功績を詳しく説明していきますね。



手先器用にして工匠となり偉作を残す




船ヶ沢新田に生れた北川岸次は幼名「小萬治」のちに「清賢」と名前をあらためています。

子どもの頃から手先が器用で、安政元年(1854年)19才のときに北川家の養子となり、近考斉岸次と名乗るようになりました。

岸次が器用であったことを物語るのが、「清賢」を名乗っていたころに制作した、神社の向拝や欄間、仏壇などの作品。

荒山十二神社の向拝裏に、清賢の署名があるそうです。

その他、穴地十二社の拝殿の大戸(上には石川雲蝶の彫刻あり)も岸次の作品です。

そして、北川家に養子に入った後の明治元年(1868年)、一村尾の若宮八幡宮の神楽面27面を作成しました。



八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す




一村尾の神楽面を作成したのと同じ頃、北川岸次は浦佐の天文数学者・柳與三次に学びながら、渾天儀(こんてんぎ)を作成します。

渾天儀(こんてんぎ)というのは、天球をかたどった模型で、古く中国で天体の位置測定に用いられた器械です。

渾天儀(国立科学館所蔵)

また、この頃、岸次は八色原の開墾に目を向けます。

八色原は以前から開田が試みられていた地域でしたが、水無川の氾濫で幾度となく土砂が流失し起伏が多いため開墾できずにいました。


明治5年7月のこと。

岸次は八色原を開墾んするために、渾天儀をもとに動力水車の開発に取り組みます。

そして、政府に補助金の申請を行うため、開墾計画の企画書と動力水車の模型を携え上京。

このとき、岸次の技能に注目した政府は、岸次に活動の場を東京に移すように勧めます。岸次は拠点を東京に移し、宮内省や工部省などで西洋建築や家具の製作を行うようになります。

岸次が申請した八色原の開墾のための動力水車はどうなったのでしょう?

八色原の開拓については、次のような記述があります。

八色原の開拓は戦前から何度も取り組まれたけれど成功することはなく、昭和53年にパイプ灌漑が完成。その後、用水路や耕作道などが整備された。

昭和という年号からもわかるように、岸次の動力水車は実現することはなかったようです。

岸次の才能を買い、政府が岸次を東京に留めたのか。
開発のための助成金を支払うことを躊躇し岸次を東京に留めたのか。

前原一誠の信濃川分水計画が明治政府に受け入れられなかったことが頭をよぎります。

平成の八色原



政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる




動力水車の模型を持って東京に出向いた岸次は、その才能を認められ、西洋建築や家具の製作を行うようになります。

実際、北川岸次が東京でどのような物を製作していたのか? これについては、岸次の息子である「北川千次」が執筆した文章に次のような記述があります。

陸軍士官学校は「エラカ」の彫刻を都下の彫刻者に募るも、未だあらざれば能く刀を下す能はざるを以てなりと、君(岸次)之れに鷹じて曰く、我が技、稚拙なると雖(いえど)も、聊(いささ)か期する所あり、試みに之に當(あた)らんかと、細念深考遂に之を制作し、士官学校の用ゆる所となれり。

参考:「東京模範商工品録」明治40年6月出版 東京の工業製品カタログ

東京模範商工品録表紙

岸次は陸軍士官学校で「エラカ」の彫刻を手がけ、同校のイスやテーブルなども制作したと千次は書いています。

ちなみに、この「エラカ」を調べてみたのですが、なんのことかわかりませんでした。人の名前なのか、技工なのか、場所なのか物なのか……。



我が国初の人体解剖模型を完成




岸次が陸軍士官学校での仕事に励んでいた頃、開成学校が理化学に関する模型の制作を懸賞をかけて募ったと千次は同文章に書いています。

千次は岸次が「洋式彫刻を士官学校の「エラカ」に倣ふて能く模擬し得たり」「模擬難模型難を叫ぶは、自ら侮るものにして面して外人に對(たい)し我が工藝界の無能を告白するもの」と一念発起して、人体模型の作製を引き受けたと説明しています。

人体模型制作で岸次は苦労を重ねたようで「苦心惨憺、遂に木彫の型を作り、之に漆型を施して以て模造するの制作法を案出せり」と制作の模様を千次は綴ります。

そして、ついに人体模型が完成。

「其の創意の結果は好績にして、彼の輸入品と相對する」

「其の功績や甚だ大、我が学術界、工藝界の歴史上に於て特筆大書に値ひす」

千次は父・北川岸次の功績を絶賛。

実際、岸次の人体解剖模型は、内蔵や血管、骨格などが精巧に再現されており、それぞれが取り外しができ、身体の仕組みを知るのに適した模型でした。

人体解剖模型は、千次の会社で制作され、医学の発展に大きく貢献したと言います。



北川岸次が手がけた太々神楽面




岸次が作成した人体模型は大正12年(1923年)に浦佐尋常小学校に寄付
され、現在は八色の森公園内の「むかしや」に展示されています。



「むかしや」さんに行くと、奥の方にリアルな人体模型が置かれていて、小学校の理科室で人体模型を初めて見てびびったことを思い出すのは、私だけではないはず……きっと。



先にご紹介したように工匠・北川岸次が手がけた作品は、南魚沼市の各地に点在しておりますので、岸次巡りができますね。

浦佐の毘沙門堂で岸次の銅像を見て、八色の森公園の「むかしや」さんで人体模型を見てびっくり!







2018年3月2日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 大ローソク【スケッチ】

いよいよ、今晩、前夜祭ですね。
浦佐毘沙門堂、裸押合い祭りで使用される大ローソクのラフ画です。

毘沙門堂の四隅に飾られます。

2018年2月18日日曜日

八海山~中ノ岳縦走登山メモ


とよじいのイラストを整理していたら、面白いメモが出てきました。

八海山~中ノ岳への縦走登山計画書のようです。

最後に駒ノ湯入って帰宅。

日付が見当たらないので、いつ頃の登山計画かわかりませんが、
このときに書いたイラストなどが出てきたらアップします。

2018年2月16日金曜日

八海山 女人堂

Mt.Hakkaisan

今日のイラストは八海山、女人堂手前です。

八海山は古くから霊山として崇められている山です。

中臣鎌足がご神託をうけ、御室に祠をつくったと言われています。

その後、役行者小角や弘法大師が山頂で修行されたとも伝えられているそうです。

それにしても、豪華なメンバーだ。

豪華なメンバーが修行したということもあり、霊峰霊場として八海山信仰が展開され、多くの修行者が訪れました。

女人堂というのは、山岳信仰により女性が立ち入ってはいけないということで、女人堂よりも先は女性は登ることができませんでした。

【八海山を訪れた修験者の話⇒八海山信仰と十二山神社の関係性

霊峰 八海山 簡易MAP

八海山ロープウェーサイトに掲載されているMAPに女人堂の位置が書いてあるので、確認してみてください。

ロープウェーが4号目で、女人堂は6合目。
その先、薬師岳8号目、千本檜小屋9号目。
八ツ峰と続きます。

八ツ峰は何度みても、おっかねぇなぁ。と思います。

八海山が修験の山。霊山。というのがわかります。

しかし、とよじい。
イラストの日付が2月ですが、雪深いときによく八海山に行ったとおもいます。
関心、関心。

おっかねぇ(笑)

2018年1月5日金曜日

Mt. Hakkaisan&Hakkaisan Sake

Mt.Hakkaisan


新潟県を代表する日本酒「八海山」。
淡麗旨口で人気のお酒ですが、その名の由来になっている山が南魚沼市にある八海山です。

山頂付近には8つの険しい峰があり、上ったり下りたりを繰り返しながら頂上を目指します。

登山をする人にも、景観を楽しむ人にも愛されている霊峰「八海山」ですが、先にお伝えした清酒「八海山」に魅せられた海外の方がいます。

2013年2月に八海山ブランドのアンバサダーに任命された、ティモシー・サリバンさん。

ティモシーさんは、以前からNYで日本酒の啓蒙活動を行われていたとのこと。

ティモシーさんは、NYの寿司屋で「純米吟醸 八海山」を飲んで、八海山のファンになったそうです。

八海山の味に感銘を受けたティモシーさんは、日本酒への関心をより深め、もっと日本酒を知りたいと思うようになったといいます。

そして、世界中の酒蔵や酒屋、日本酒を取り扱うレストランの情報が掲載されたWEBサイトUrbanSake.comを立ち上げます。

その後、ティモシーさんの活動を知った八海醸造がティモシーさんにアプローチ。
蔵に来てもらったり、酒造りを体験してもらったり、文化交流を通じて八海山への理解を深めてもらったそうです。

2016年には、秋から春まで蔵人と同じ環境で酒造りを体験。

ティモシーさん自身は「私には酒造りの才能はないけれど、より良い日本酒の教育者となれる」とおっしゃっています。

灯台もと暗し。

日本酒の良さを本当の意味で日本人は理解していないのかもしれませんね。

NYからの新しい風をティモシーさんが運んできてくれたこともあり、
八海山の活動展開はさらに広がりを見せます。

「2017 Ultimate Wine Challenge(NYワイン品評会)」での最高位Chairman's Trophyの受賞や「2017 Los Angeles International Wine Competition(LAwain ワイン品評会)」などでも高い評価を獲得。

世界に八海山の良さが伝わるようになりました。

これからも、展開を拡大する清酒「八海山」の様子を、霊峰「八海山」は見守っていてくれることでしょう。


2017年12月23日土曜日

Souma nomaoi



OMATURI NAVIさんというサイトがありました。
日本の祭りについて、日本語と英語で紹介しているわかりやすいサイトです。

以下は「祭ナビ」さんのサイトで紹介されてる「相馬野馬追い」の説明。

『Soumanomaoi is said to be originated from the training which Masakado Taira released the wild horse and pretend it to be enemy. You can experience gorgeous and heroic Sengoku picture scroll which around five hundreds warriors who are on horseback fortified with armor wearing sword on the waist and flag on the back, run at full speed.』


祭りは、地域性があるものですから、説明が難しいと思います。
日本人ならなんとなく「あー。うんうん」と理解できると思うのですが(忖度)
海外の方に説明するとなると、どう説明したらいいか??となります。
そもそも、英語が話せない書けない(私)状態だと、ますますハードルが高くなります。
祭ナビ」さんはわかりやすく書かれているので、海外の方に祭りを説明するのにピッタリだと思います。


2018年夏。
相馬野馬追いを観覧したい方は、執行委員会にお問い合わせを♪


2017年7月4日火曜日

相馬野馬追いのイラスト






相馬野馬追は、福島県相馬市で行われる祭礼です。

2017年の開催日は……。

7月29日(土)、30日(日)、31日(月)の3日間です。

30日の野馬追いを祭場地で観覧できる、観覧席券が発売されているようですが、
詳細は、相馬野馬追執行委員会公式ページでご確認ください。


祭礼1日目は相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の各妙見神社で出陣式が行われ、総大将をお迎えの儀式を終えたあと、南相馬市の雲雀ヶ原祭場地に向かいます。
その後、祭場で騎馬武者たちが古式馬具をつけて、馬場を走る「宵乗り競馬」が開催されます。


祭礼2日目は、相馬野馬追いのハイライト。
騎馬総勢500騎ほどが、祭場地へと向かう「お行列」が行われ、祭場地に到着後いよいよ「甲冑競馬」が開催されます。
そして、クライマックスの「神旗争奪戦」開催。2本の御神旗を、数百の騎馬群が奪い合います。

祭礼3日目は、神のおぼしめしにかなう馬をとらえて、奉納する神事。
騎馬武者が小高神社境内に馬を追い込み、御小人と呼ばれる若者たちが素手で馬をとらえます。

ざっくりですが、相馬野馬追いの流れについて書かせていただきました。
相馬馬追いを描いた、とよじいイラストがまだまだあるので、お祭りとともに紹介させていただこうと思っております。



2017年7月3日月曜日

何れ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)






何れ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)。
五月雨に 沢辺の真薦 水越えて いづれ菖蒲と 引きぞ煩ふ

「太平記」の中にある記述で、源頼政が鵺(ぬえ)を退治した褒美に、鳥羽院から菖蒲(あやめ)前という美女を賜るとき、十二人の美女の中から選び出すように言われ、美人揃いだったため選びかねて詠んだ歌といわれています。

近衛天皇在位のとき、毎晩、丑の刻(午前2時)に御殿の屋根を黒雲が覆うという出来事が起こった。警護をまかされた源頼政は、雲の中に怪しい影があるのに気付き矢を放ったところ、頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物が落ちてきた。これを退治した源頼政は、獅子王という御剣を天皇から賜ったという。

源頼政は源義朝について戦い、その後、義朝が起こした平治の乱では平清盛の味方となり、平家の横暴をみかねて平家を打つために挙兵しようとしますが、事前に発覚し、平等院で自害しました。

アヤメかカキツバタか、迷い迷われての人生だったのでしょうか?
それとも、知っていて、迷ったふりをして、世の流れに乗って動いたのか。
75歳以上生きた方のようですから、後者かもしれませんね。

さて、アヤメとカキツバタとショウブの見分け方ポイントは、生えているところが違うということ。

アヤメは乾いたところ。

カキツバタは水辺。

ショウブは湿地。

もう一つは、花の中央にある筋の色。

アヤメは黄色と紫の縞目模様。

カキツバタは白いすじ。

ショウブは黄色いすじ。

あとは、葉っぱの形が、アヤメが細くて平ら。カキツバタが幅広く平ら。ショウブは葉っぱの中央に太い筋があります。


ということで。とよじいのイラストがアヤメかカキツバタかショウブかわかりませんでしたが(汗)。
真ん中に白い線があるので、カキツバタかなということで。
違っていたら、教えてください(*^_^*)

2017年5月11日木曜日

佐渡島のイラスト 願(ねがい)集落






今日のイラストは佐渡島「願(ねがい)」集落です。

願は二つ亀と大野亀に挟まれている集落で、先日紹介した賽の河原がある場所です。

佐渡島 賽の河原

願集落から二つ亀へと向かう遊歩道の途中に、賽の河原があります。

賽の河原と「願」という名の地名が、マッチしているようでマッチしていないような、不思議な感じです。

願をポジティブで希望的な言葉として考えると、
あの世とこの世を結ぶ三途の川の河岸である賽の河原で願うのは
合わないような気もしますが……。

自分のための願いではなく、人を思っての願い……。

亡くなった人や家族が、三途の川の向こうで幸せに過ごして欲しいという願いと考えると、願という地名と賽の河原がしっくりくるように思います。

賽の河原には、子ども地蔵がたくさん置かれているのですが、親が子を思って置かれたのでしょうね。

彼岸では子が親を思い石を積む。此岸では親が子を思い地蔵を置く。

それぞれの願いが交差する河岸が賽の河原なのでしょう。


「願」という地名の由来は、大野亀に願掛けをすると、願いがかなうということから来ているそうです。

どのような願掛けをするのか。

賽の河原という場所ですから、亡き人の幸福を思っての願いが多いのでしょうね。

ちなみに、願集落には佐渡西国三十三観音の二十三番「施願観音」があります。

1東強清水~2逢田観音~3河内観音~4観音寺~5帰郷観音~6六句観音~7斉藤観音~8宿根木~9小太観音~10子安観音~11横山観音~12豊田観音~13新町観音~14三宮観音~15下新穂~16阿弥陀堂~17火伏観音~18円慶堂~19吾潟観音~20久知河内~21白瀬観音~22見立観音~23施願観音~24岩谷観音~25入川観音~26千佛堂~27波切観音~28下戸観音~29治門観音~30知空堂~31石田観音~32本屋敷~33堂林観音

番外─光善寺、稲葉堂、大浦観音、田中観音
本部─れんげ寺

となっております。

西国巡りは人気ですよねぇ。
浦佐毘沙門堂の後ろの山にも西国三十三番観音巡りありました。

>>浦佐毘沙門堂裸押合祭り

誰かを思って願う、日本人の優しさを感じる地名ですね。