2017年2月24日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。

浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。

今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。

話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。


毘沙門堂市と多聞天祭礼市


大同2年(807年)に、坂上田村麻呂が建立されたと言われている毘沙門堂がある南魚沼市浦佐は、信濃川に通じる魚野川の両岸に位置する町です。

現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。

浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。

裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。

また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。


毘沙門天と多聞天について【余談】


浦佐毘沙門堂の入り口の扁額にも「多聞天王」と書かれていますが、多聞天というのは、毘沙門天のもう一つの名前です。
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。

余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。

話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。

毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。

ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。

普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。

毘沙門堂の毘沙門市


さて、毘沙門堂付近で開催されていた市ですが、毘沙門堂の市に足を運べば、なんでもそろうと評判だったようです。

ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。

市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。

徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。

縮の販売で堀之内とトラブル!?


この毘沙門堂の市とは別に、現在の魚沼市堀之内では4月に「縮市」が開催されていました。

堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。

江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。

堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。

十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。

ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。

ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。


ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!


浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】


ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。

起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。

菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。

菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。

なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。

2017年2月21日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 「年男」と毘沙門天像の関係



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合祭りの中でも重要とされている「ササラ擦り」のシーンです。

ササラ擦りとは、毘沙門天に豊作を祈願して奉納する儀式。

人馬に担がれている年男が行います。

年男は祭りを主宰し、ササラ擦りなど重要な役目を担うキーマンです。

その年の十二支と同じ年に生まれた人をさして「年男」「年女」と言いますが、
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭でササラ擦りを行う「年男」は、十二支の「年男」という意味ではありません。

家々で正月行事を司る家長としての「年男」の意味に近いと言えます。


浦佐毘沙門堂の堂守「井口家」


浦佐裸押合い祭の「年男」は代々「井口家」当主が務めると決まっています。


井口家は代々毘沙門堂の堂守を務める家で、裸押合い祭りをはじめ、毘沙門天や毘沙門堂にかかわる一切のことを管轄しているそうです。

これは、井口家のご先祖が毘沙門天像と深い繋がりがあるからなのです。



井口家のご先祖が沼に釣りに行った際、沼から毘沙門天の木像を引き上げたと言います。
※木像で丈は7寸か8寸(25cm弱)。



井口家ご先祖は毘沙門天像を家に持ち帰り、石の祠を建てて内鎮守として祀り、のちにその毘沙門天像を普光寺境内に安置したのです。



これとは別に、井口家のご先祖が毘沙門天堂を背負って浦佐にやってきたという伝承も残されています。


2017/03/03追記
井口家のご先祖は、丹波国(京都府)の吉祥院と称する当山派の山伏だったとのこと。



浦佐の毘沙門堂裸押合い祭における「年男」の役割は「神主」に似ているようでもありますが、祭り前の厳しい「行」を考えると、行者に近いと感じます。

年男は裸押合い祭で福物を人々に撒与ますが、毘沙門天の代理として行うため、祭り前には二週間の仮行と一週間の本行を行い心身を清めます。

裸押合い祭当日も、ササラ擦りが行われる時間まで、年男は本堂の一室に設けられる「行場」に籠ります。

裸押合い祭がおこなわれている毘沙門天堂から行場は離れていて、
行場から毘沙門堂へ移るとき、年男たちは不浄なものに接しないように、人馬に担がれて移動するのです。

「祭り」というとイベント的なイメージが浮かびますけれど、
浦佐の裸押合い祭の流れを知ると「本来は神聖な儀式だった」と身が引き締まる思いがしました。


ご本尊「毘沙門天像」について


裸押合祭の際、参拝の対象になる毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏で、木製(ツバキ)で作られていると言われています。

「北越雪譜」天保8年(1837年)にもツバキという記述がありますし、
「浦佐年中行事」宝暦4年(1754年)には
『毘沙門は立像二尺六七寸の椿の白木作 依之一村椿を大切にいたし』との記載があります。

本尊の毘沙門天像は金銅製で、普光寺の別行殿に安置されています。

前立仏の毘沙門天像、金銅製の毘沙門天像ともに、いつ作られたのかわかっていませんが、金銅製の毘沙門天像はインドの仏師・毘首羯磨(びしゅだるま)の作と言われています。

「南魚沼郡志」に『本尊毘沙門天は印度の毘首羯磨の彫刻に係ると言う 長さ二尺三寸 厨子に天正二十(1592)年云々と彫刻あり』という記述があります。

ちなみに、南魚沼市「龍沢寺」にも毘首羯磨が制作した文殊菩薩が安置されています。
龍沢寺に文殊菩薩を奉安したのは、上杉景勝の母・仙桃院(上杉謙信の姉)です。


話しを浦佐の毘沙門堂に戻します。


昭和23年(1948年)2月29日の魚沼新報に梶山賢朗住職(当時の普光寺住職)が書いた「本尊毘沙門天王について」という記事が掲載されました。

その中で本尊毘沙門天像は「金の甲を被り左の手に宝塔をささげ、右の手に如意宝珠をのせ、足下には藍婆、毘藍婆の二鬼を踏んづけている」と描写されています。

平成10年(1998年)に発行された「図説 十日町・小千谷・魚沼の歴史」に、旧浦佐毘沙門天像の本尊と伝えられている毘沙門天像の写真が掲載されていますが、足下に二鬼は踏んづけていません。

こちらの書籍に載っている毘沙門天像は、井口家の内鎮守に祀られていた毘沙門天像なのでしょうか。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前、井口家が祀っている毘沙門天像に戦勝祈願をし、蝦夷平定後に再び訪れ住民の歓迎を受けたとのこと。

それ以後、毎年毘沙門堂を訪れてお祝いをしたのが、裸押合い祭の起源という言い伝えもあります。

大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門天堂を建立して、金銅製の毘沙門天像を安置したという伝承も残っています。

蝦夷平定後、毘沙門堂を建てて、毘首羯磨作の毘沙門天像を本尊として安置した──という流れでしょうか?

「普光寺の明細書」慶応4年(1868年)に『本尊 多聞天 一体 木像 丈二尺三寸一分』と書かれています。
ここに「本尊」「木像」とあるのが気になりますが……。


坂上田村麻呂おお忙しの「大同2年」


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像が複数存在している話を書きましたが、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在しています。


「大同」は806年から810年までの4年間の年号。
平城天皇が即位しましたが、大同4年(809年)に病気のため弟の嵯峨天皇に譲位します。

坂上田村麻呂建立ではないけれど、大同2年に建立されたという謂れがある建物が全国各地に存在しています。著名なところだと清水寺や長谷寺。

その他、山の開山や鉱山の開坑も、大同2年という記述が複数見られます。

東北方面は坂上田村麻呂に関連した伝承、南は空海に関する伝承の大同2年建立という建物がたくさん!

この二人が全国各地を練り歩き寺社や神社をどんどん建てた……とは考えられないので、二人に縁のある人たちが関与したのかもしれません(笑)。

もしくは、大同2年よりのちの世。何らかの意図で、神社仏閣の建立年を大同2年に変更したのかも。


由縁があると「大切にしよう」という思いが強くなります。

土地や建物を後世まで残すために、様々な人物の名前を借りて、誰かが何かを守ろうと考えたのかもしれませんね。

古人が守り続けてくれたからこそ、昔の歴史を調べてワクワクすることができるのですから。

2017年2月18日土曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 1本の椿から作られた複数の毘沙門天像





こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、裸押合い祭りが開催される、普光寺境内の毘沙門堂です。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で

栃尾市の「巣守神社」のご神体「毘沙門天」と、浦佐の毘沙門天が同じツバキの木で作られているという伝承を紹介しました。

続けて調べたところ、巣守神社と同様に「浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた」という伝承が残っている毘沙門天像が新潟県内中越地方を中心に点在していることがわかりました。

毘沙門天像の大きさについて


浦佐の毘沙門天像は、木像のものと、金銅製のものがあることをご存知でしょうか?

押合祭のとき、参拝の対象になるのは、木製(ツバキ)の毘沙門天像で、毘沙門天堂内に安置されています。

ツバキでできている毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏です。

金銅製の毘沙門天像が本尊であり、坂上田村麻呂が泰安したといわれています。
本尊は普光寺の別行殿に安置されています。

巣守神社をはじめとした、中越地方の寺社に安置されている同じ木で作られていると言われているのは、浦佐毘沙門天堂内に安置されている、前立仏の毘沙門天像です。

この毘沙門天像の大きさに関する記述が複数の書籍に見られますが、それぞれ大きさの記述が異なります。

・江戸幕府の検地役人・土山藤右衛門が勘定奉行に提出した復命書(出張報告書のようなもの)「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)には、二尺六~七寸(80cm程)。

・会津藩の地誌「新編会津風土記」文化6年(1809年)には、二尺三寸余(70cm程)。

・江戸時代に越後魚沼の雪国の生活を描いた「北越雪譜」天保8年(1837年)では三尺五~六寸(1m10cm弱)。

・大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)と記されています。

しっかり採寸したのか目視によるものか。

それにより、大きさの記述に違いがでると思います。

もしかすると、それぞれの書籍が書かれた時代の毘沙門天が違っていた──
という可能性も否めません。


浦佐毘沙門天像が彫られたツバキの木はどこから来たのか?


鈴木牧之の「北越雪譜」に、浦佐の毘沙門天像は「椿沢という村にあったツバキの大樹を切って造った尊像と言われている」という記述があるように、毘沙門天堂内に安置されている前立仏の毘沙門天像は、椿沢の山にあったツバキの大樹を伐り、それを彫って造ったと伝えられています。

ツバキの大樹があったという椿沢は、現在の見附市椿沢町です。

浦佐には、見附市椿沢の毘沙門天と浦佐の毘沙門天は1本のツバキから彫られたという伝承が残っていますが、見附市椿沢の「椿沢寺」には、毘沙門天像が浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られたという伝承はありません。

ただし、椿沢寺には毘沙門天像のほかに、千手観音像が安置されていて、こちらはツバキの古木で作られていると伝わっています。

椿沢寺の千寿観音像は、和銅二年(709年)に行基が椿の木の霊示を受けて椿の古木で千手観音を彫刻したという伝承と、椿沢を通りかかった旅の僧が、倒れた椿の大木で三体の観音像を刻んだうちの一体である、という二つの伝承があります。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で、

栃堀の巣守神社にある毘沙門天像は、浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られているという伝承が残っていると書きましたが巣守神社にも、見附市椿沢から採取したツバキの木から二体の毘沙門天像を作り、一体を巣守神社もう一体を浦佐のご神体としたという伝承が伝わっています。

また、巣守神社の毘沙門天像を作ったツバキは、守門岳からとってきたという言い伝えもあります。

浦佐は見附椿沢の毘沙門天像と同じツバキで作られていると言い、
栃堀は浦佐と同じツバキで作られていると言う。

「どっちが本当なの!?」と思いますよね。
けれど「同じツバキで作られている」と伝承しているのは、見附と栃堀だけではないのです。


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像は何体あるの!?


柏崎・常福寺では昭和30年代の終わり頃まで、浦佐毘沙門堂と同じように3月3日に裸押合い祭りが開催されていました。

常福寺にも毘沙門天像があり、常福寺を建立した伝教大師が椿の古木で毘沙門天を三体作り、
上を高原田、下を浦佐、中を常福寺に安置したと言われています。

これ以外にも、浦佐の毘沙門天と同じツバキの木で作られているとされる伝承が残されている毘沙門天像が

・柏崎の常福寺、普広寺
・小千谷の多聞神社
・魚沼の守門村にある内鎮守、宝泉寺
・南魚沼の七尊観音堂

など、複数の神社仏閣に安置されています。


1本のツバキで何体もの毘沙門天像が作られたのか?


浦佐毘沙門堂内に安置されている前立仏の大きさは、著書により大きさがさまざまであるとお伝えしましたが、一番近世の大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」の二尺三寸(70cm程)で考えてみも、1本のツバキから1m弱の毘沙門天像が何体も制作できたとは考えられません。

椿は通常5~6mほどの高さになる常緑性の高木です。

では、大樹と言われている椿はどのくらいの大きさなのでしょう?

参考として、日本にある椿の大樹の大きさを記述させていただきます。

・京都府与謝野町「滝のツバキ」樹齢1200年を越える。樹高は9.7m、幹周約3.3m。

・千葉県成田市「伊能のツバキ」樹高6m、幹周3.5m。

・東京都大島町「小清水の大木」樹齢300年。樹高10m、幹周1.6m。

大樹、古木となりますと、樹勢が衰えて幹の空洞化が進んでいる場合もあります。
どんなに大きなツバキの木だとしても、枝分かれ部分もありますから、何体もの毘沙門天像を彫り出すのは難しいと思います。

各地の毘沙門天像は浦佐の毘沙門天像である可能性(推測)


もし、浦佐の毘沙門のツバキの毘沙門天像が複数存在していた、としたらどうでしょう。

そのように考える理由が、昭和6年に起った毘沙門堂の火災についての記事にあります。

浦佐の毘沙門堂は、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したと言われています。

どのような建物であったのかわかっていませんが、鎌倉時代には今の毘沙門堂と普光寺、大伽藍の輪郭が形成されていたようです。

「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)にも、江戸時代中頃には毘沙門堂は7間4面の荘重な御堂であったと記されています。

しかし、この御堂は、残念ながら昭和6年(1931年)の火災で焼失してしまいました。

今の毘沙門堂は、伊藤忠太(東京帝都大学名誉教授)設計により、昭和12年(1937年)に完成したものです。

昭和6年の火災で毘沙門堂は焼失。その時の記録として――。

・木像毘沙門天一躯
・吉祥天・善膩師童子の両脇侍
・八大夜叉八躯
・鬼子母神、賓頭盧尊各一躯

その他、仏具類を焼亡したとあります【新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗より】

秘仏である本尊は火災を逃れましたが、木像の毘沙門天「一躯」が焼亡しています。

火災の後、木像の毘沙門天像が作られたという記述が見受けられないので、現在毘沙門堂に安置されている前立仏の毘沙門天像は、昭和6年の火災を逃れた毘沙門天像ということになると思うのですが……。

昭和6年の火災で木像毘沙門天一躯が消失したということは、現存している前立仏の毘沙門天像と消失した木像毘沙門天像、少なくとも毘沙門天像は2躯あったということですよね。

先に紹介した過去の書籍は、それぞれ毘沙門天像の大きさが異なります。

・「浦佐村年中行事」二尺六~七寸(80cm程)。
・「新編会津風土記」二尺三寸余(70cm程)。
・「北越雪譜」三尺五~六寸(1m10cm弱)。
・「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)。

それぞれの書籍の著者が見た毘沙門天像が全て異なっていたという可能性もありますよね?

出雲崎町「多聞寺」の本堂に2体の毘沙門天像が安置されていますが、そのうちの1体が、浦佐から招来された毘沙門天像として伝わっています。

多聞寺参道前にある石碑には、多聞寺が浦佐毘沙門天の御分体を安置し、出張所を作って活動していたという刻字がされています。

残念ながら、多聞寺の毘沙門天像は秘仏とされていて普段は見ることができませんので、
どのような立像なのかわかりませんが、複数の毘沙門天像が作られ、出雲崎の多聞寺と同じような形で、浦佐から各地に毘沙門天像が送られていたとしたらどうでしょう?


ツバキと上杉謙信と毘沙門天でブランディング


ツバキは古来より「神が宿る木」として、現在でも「霊木」とされています。

浦佐では毘沙門天像がツバキから作られているというので、ツバキを薪にすると祟りがあると言われ、ツバキの木を植える人がいないと「北越雪譜」に書かれています。

そして、浦佐の毘沙門天像をつくったツバキと同一のツバキからつくられている毘沙門天像があると言われている見附の椿沢寺は、上杉謙信の祈願所として庇護を受けていました。

謙信は、行基により彫られたという千手観音を信仰し、戦勝祈願に訪れたそうです。

そして結願の礼として、椿沢寺に仏具や枕屏風、茶がめなどを寄進しています。

上杉謙信は「自分は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じ、毘沙門天を深く信仰していました。

浦佐の毘沙門堂も上杉謙信との関連があり、天正3年(1575年)に謙信は北条氏政壊滅祈願のため、代理人を浦佐の毘沙門堂に参籠させています。

浦佐の毘沙門天は、古くから越後有数の霊験神として崇められ、武門階級は武の神として、農民は農業の神、商人は養蚕の神として信仰していました。

霊木のツバキ、戦国時代最強の武将と言われた上杉謙信、その謙信が崇拝した毘沙門天。
三拍子揃った浦佐の毘沙門天は神格化されていたはずです。

その毘沙門天と「同じ木」で作られているとなれば、参拝する人も増えることでしょう。
また、格式や権威を得ることができたはずです。

浦佐に置かれていた毘沙門天像が、出雲崎町「多聞寺」のように、出張して設置されることになったのか。

はたまた、同じ椿の木で作られたのか。

同じ木で作られている話になったのか。

真相はわかりませんが、古くから各地で、毘沙門天像のブランディングが行われていたのかもしれませんね。

2017年2月6日月曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭







こんにちは、魚沼工房のさとうです。
新年を迎えたかなぁと思ったら、あっという間に節分が過ぎてしまいましたね。

月日が過ぎるのが早いです。
前倒しで行動しないと、置いていかれるばかり……。

ということで!
今日のイラストは、3月3日に開催される、浦佐毘沙門堂裸押合い祭!


2017年の開催は金曜日となります。



前夜祭 3月2日(木)
・ご祈祷⇒午後6時~8時
・点火式⇒午後8時~

大祭当日 3月3日(金)
・稚児行列、福餅撒与など⇒午前8時30分~
・押合、弓張撒与、福餅撒与など⇒午後5時~午後10時45分



浦佐の裸押合い祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の無形民俗文化財に指定されていて、大きなローソクを使うことから「大ローソク祭り」とも言われています。

ローソクの重さは約30kg~50kg。
その製造工程は秘伝とのこと。


祭りの起源は、坂上田村磨が浦佐に御堂を建て、毘沙門天王を祀り、
将士や村人と共に国家安穏と戦勝を祈願、五穀豊穣・家内安全・身体健康を祈り、
祝宴を開催し、士気を高めたことと言われています。


また、化け猫退治が祭の始まりという説もあります。

毘沙門に住みついた猫が年をとって化け猫になり
毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺してしまった。

村人たちが化け猫退治を思案しているとき、一人の修行僧が毘沙門堂を訪れ
村人たちとともに化け猫を退治したという。

このとき、 化け猫にむしろをかぶせ「サンヨ、サンヨ」と掛け声をかけて、
化け猫を踏みつけた。

そのため浦佐では、毎年3月3日に御堂にむしろを敷き、
「サンヨ、サンヨ」という掛け声を唱えながら裸押し合い祭りをするようになったといいいますが、押合い祭で、様々な物が撒かれることからサンヨ=撒与の意味であると思います。


かつては、日光東照宮の「眠り猫」を彫った名工・左甚五郎の作とされる原形を元
「魔除けの猫面」が、毘沙門堂門前で売られていたそうです。

昭和初期に作り手がいなくなりましたが、
魚沼出身の画家・早津剛氏が古い猫面を発見し
猫面の復元が行われ、11980年代に「魔除けの猫面」は復活を果たしたのです。


じつは……。
魚沼工房のさとう。


高校のとき、早津先生と一緒に猫面制作していました(笑)


和紙をすいて、その和紙を石膏でつくった猫のお面に重ねて
乾いたら石膏形からはずし、目と口に色をつける。

伝統文化に触れることができました。
和紙作り、猫面作り、楽しかったです。
良い経験をさせていただきました、ありがとうございます、早津先生!

2017年1月25日水曜日

幻想スケッチラフ画 タイトル:コスモゾーンへ




こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、とよじいのスケッチブックラフ画から、謎の絵です(笑)

イラストの下部に「コスモゾーン」という文字が見えますね。
コスモゾーンってなに? と思い、ネット検索してみましたよ~。

どうやら、巨匠・手塚治虫が作った言葉のようですね。

「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」というアニメ映画が、手塚先生監修により1980年に公開されています。
「コスモゾーン2772」は未確認宇宙生命体。危機に瀕した地球を救うためのカギを握ってる存在。

とよじいのスケッチは、いつ描かれたのか年月がわかりませんが「歩道橋」にてと書かれています。
歩道橋で思いついたのでしょうか? なぞ~。

先日、テレビ番組の「やりすぎ都市伝説」を観ました。
「信じるか、信じないかは、あなた次第です」のアレです。

人工知能についての紹介が……。
siriやイライザ、ゾロタクスゼイアンなどですね。
気になる方、調べてみてね~♪

「やりすぎ都市伝説」を観る前、ヒストリーチャンネルで「古代の宇宙人」シリーズを観たのですが、そこでも人工知能や、次なる人類(人類の進化)などについて描かれていました。体内にチップを埋め込んで、脳の能力を……のような話です。

人工知能や機械人間というと、映画「ターミネーター」やアニメ「銀河鉄道999」を思い浮かべ、イコール悪という認識を抱いてしまいますが、

人工知能、器械人間も人類の進化の過程なのかなぁと思いました。
どんな方向に向かっていくのか、わかりませんけど

その後、ドラえもんのCGアニメ映画「STAND BY ME ドラえもん」をチラっと見ました。
そこで、はたと気づいたのです。

トラえもんもロボットだ!

でも、私たちはドラえもんをロボットと思っていません。
「STAND BY ME ドラえもん」の中で、大人ののび太が子どもののび太に
「ドラえもんは君の子どもの頃の友達だから」というセリフがありました。

ロボットだけど、友だちなのです。

「やりすぎ都市伝説」の中でも、ゲストの的場浩司がAIについて
「ドラえもんだと思えばいいんだ」と言っていました。

これに対して、ミスター都市伝説の関暁夫が「よかったぁ!」と安堵の声を漏らしました。
関さんは、ずっと都市伝説でAIについて説明してきたけど、理解(このときの的場さんのように)してもらえなかった、といったことを言っていました。

詳しく語れないこともあり、その中で様々な説明を行っていたのだと感じます。

機械との融合やAIとの関係は、ドラえもんとのび太のようなものだと思えばいいのかな、と個人的に思いました。


はっ!

最初に手塚先生の話がでたわけですから、アトムと言うべきだったのかも(汗)

2017年1月23日月曜日

瞽女のイラスト



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、雪道をゆく瞽女さんです。

瞽女さんは、三味線や琴を弾き語りながら、各地を巡る盲目の女性芸能者のことを言います。
近年まで活躍されていた、小林ハルさんは「長岡瞽女」と呼ばれています。

私が子どものころ、冬の寒い日、瞽女さんが家を訪れたことがあります。
とよじいと清子と一緒に、瞽女さんの弾き語りを聞いたのですが、
子どもでしたからね、怖いというイメージを抱きました。

先頭の女性の肩に手を置き、その人の肩に後ろの人が手を置く。
列になり、瞽女さんは暗い雪の中を歩いて行きました。

さて、今日のイラストはツギハギだらけですが、実際はツギハギではありません。
スキャナに紙が入らず、分けてスキャンしたところ、ツギハギ状態になりました。

おしゃれかなと思って、そのまま加工せず、ツギハギでアップさせていただきました。

紙のサイズはA3×1.5ほどでしょうか?
いわゆる、大洋紙に書かれているのですが……。

大洋紙? と思った人がほとんどですよね。

新潟県民の方、大洋紙は他県では通じません。
大洋紙ではなく、模造紙です。

大きな紙ということで、新潟県では大洋紙と言います。
ちなみに、wiki先生によると、
山形県では大判紙。富山県ではガンピ。
鹿児島では広幅用紙。九州では広用紙。

など、その土地土地で呼び方が変わるようです。

詳しくは⇒゛模造紙”の呼び方で出身地がわかる

共通語や共通の風習だと思っていたら「違うの!?」
と気付いたときのカルチャーショックっていったらねぇ、アナタ。

今年の夏、平等院に行ったとき、お正月のお焚き上げでスルメを焼くのは新潟だけだって知ってビックリでしたよ。

「なんで、平等院とスルメが結びつく!?」のかについては、機会があったらお話しさせていただきますねぇ。

2017年1月22日日曜日

八海山のイラスト 折立温泉遊歩道から望む八海山

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、折立温泉遊歩道から望む、八海山です。

折立温泉遊歩道は、魚沼市の下折立付近にある散策路です。
折立釈迦堂へと繋がる階段を登り遊歩道へと入ります。
標高475mの小高い丘からは、八海山や駒ヶ岳が眺望できます。
U字を描くように丘を散策し、諏訪神社裏にある下折立農村公園にでます。

遊歩道終点付近に「大久保のブナ林」というところがありますが、
こちら、新潟県のブナ林100選に選ばれていますよ。

下折立で調べていましたら「下折立の百八灯雪まつり」の写真を見つけました。



折立温泉「百八灯」

毎年3月の第一日曜日に、山の尾根に108の篝火が並ぶそうです。

これ、とよじいがイラスト描いていました!
お正月に帰郷したとき、とよじいの部屋をあさっていたとき、
祭りのイラストの中から出てきたのです。

「この祭り、しらねぇろう(知らないだろう)」と、とよじい自慢げに言っていました!

稲荷大明神に無病息災、五穀豊穣を祈願して、尾根に108の篝火を並べるそうです。
江戸時代から続く伝統行事。幻想的なお祭りですねぇ。
2017年3月第一日曜日だと、3月5日ですね。

「百八灯」のイラストは、後日アップしますね♪

2017年1月21日土曜日

八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、八海山ロープウェー麓駅から望む、八海山。

とよじいは、イラスト内に「山口ゴンドラ場」と書いてありますが、
八海山ロープウェーの登り口です。

麓駅の住所が「山口」で、ロープウェーの前は4人乗りのゴンドラが運行されていたのです。

八海山ロープウェイは、山麓駅から4合目(山頂駅)まで運行しています。
山頂駅まで5分ほどで到着します。
四季それぞれの山の様子がパノラマで楽しめます。

ロープウェイを利用することで、八海山への登山時間が短縮できます。
とはいえ、八海山山頂の八ツ峰は登山素人が挑むには難しい場所。
アップダウン&鎖場続きで、かなりの難所です。
大日岳までの征服コースは上級者向けで、ロープウェーを使って往復6時間以上かかるようです。

八海山ロープウェイは1983年から2001年まで、4人乗りのゴンドラが運行していました。
風に弱く、運休することが多かったそうですが、現在は運休が少なくなったそうです。

八海山ロープウェイの運行は4月から11月。
朝8時ころから夕方の4時頃まで行き来しています。

今は冬でお休みですが、春になったら新緑が綺麗ですよ。
カタクリ群生地があり、4月下旬から5月上旬までカタクリの花が楽しめます。

山頂駅付近には、展望台や展望デッキもあり、周囲の景色が望めます。
パターゴルフや渓流広場など、レジャーを楽しむ施設も。

八海山山頂までの登山だけではなく、景観や自然を楽しむことができますよ。
春になったら、八海山ロープウェーに乗ってみようかな♪

2017年1月20日金曜日

権現堂のイラスト 権現堂の弥三郎バサ

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、権現堂山から望む「八海山」です。

権現堂、権現堂とよく、とよじいが言っているのですが、
権現堂山は上権現堂と下権現堂とにわかれているのですね。

この山は、弥三郎バサが住んでいる山ではないか!

「悪い子になると、権現堂から弥三郎バサがくる」
子どもの頃に、言われた方も多いのではないでしょうかね。

弥三郎バサがなにものかわからず、恐怖心だけが余計につのるというね。

弥三郎バサの民話は、じつは悲しい物語なのです。

弥三郎という猟師と妻、息子が暮らしていましたが、
弥三郎は雪山に猟に向かい戻ってこなかった。
その息子も猟師になったが、猟から戻ってこなかった。
息子の嫁は悲しみのあまり後を追って死に、
残された乳飲み子を、弥三郎の妻が育てていた。

弥三郎の妻は、孫のために近隣に乳をもらいあるいたが、
最初同情していた村人たちも、しだいに弥三郎の妻をうとましがるようになり、
猟師という職業から殺生による罰とののりし、村八分にされた。

孫は餓死し、弥三郎の妻は鬼と化し、人の子をさらって食らうようになった。
のちに、えらいお坊さんに諭され、弥三郎バサは改心し、
妙多羅天女という名を授かった。

wiki先生によると、 妙多羅天女というのは、
神仏、善人、子供の守護者で、悪霊退散の神。
縁結びの神様でもあるそうです。

新潟県とお隣の山形県で祀られている神様ということ。

弥彦神社に隣接して、 妙多羅天女が祀られているそうですね。

弥三郎バサの伝説は様々あるようで。
猫が弥三郎バサを食って、弥三郎バサになりすましたというものもあります。

弥三郎バサよりも、弥三郎という人物のほうがキーマンかもしれません。

織田信長に小姓として仕えていた、加藤弥三郎という武将がいます。
鎌倉時代の武士、 鳥海弥三郎という方もいますね。

伊吹山(滋賀県)に住んでいた大男、伊吹弥三郎の伝説もありますね。
伊吹弥三郎は富士山を作ったとか!

弥三郎という名前、ポピュラーだったようですね。
かっこいい名前だったのかな、流行の名前。

2017年1月19日木曜日

八海山大崎火渡り大祭のイラスト





こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、八海山大崎の火渡り大祭です。
毎年、10月20日に開催されます。

大寒の寒修行の時期に、季節外れのイラストアップですが、お許しを~。

火渡り大祭が行われる八海山尊神社では、
1月28日から2月3日の節分まで、行者のかたが瀧に打たれ、胡麻祈祷を行い
厳しい修行を通じての祈念が行われます。

満願の日が節分祭となり、
さまざまな福物がまかれます。

節分祭は昼の部、夜の部の2回開催されます。

詳しくは、八海山尊神社のHPをご覧ください♪

2017年1月16日月曜日

八海山信仰と十二山神社の関係性 八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。

今日のイラストは、大力山から望む「八海山」です。


先日「山の神の日はなぜ12日なのか?
この中で、魚沼地方に十二山神社が多く、その理由は八海山と八海山を訪れた修験者が関係していると書きました。

南魚沼地方に位置する「八海山」は、木曾御嶽信仰の霊山です。
「なんで、木曾御嶽?」と思われますよね。

それは!

八海山を開山したのが、木曾御嶽山を開山した普寛だからです。
八海山麓に住んでいた泰賢を弟子にして、一緒に八海山を開山したと言います。

808年に空海が登り、8つの池があったので八海山と名付けたという伝承もあります。

この八海山の本地仏は薬師如来ですが、木曾御嶽信仰の霊山ともされていて、
八海山大頭羅神王が鎮座する山としても信仰されています。

行者の活動にともない、八海山が霊山として人々の間に広まり、
山の麓にある神社も増えて行きます。

東洋大学ライフデザイン学部健康スポーツ学科、菊池章太教授の研究レポート「十二山ノ神の信仰と祖霊観」に、なぜ「十二」なのかという考察が書かれています。

十二山ノ神は薬師如来の眷属である十二神将や、熊野十二所権現と関係があるのではないか、という説があるそうです。ここに、行者や修験者たちが関わっているのではないかと、先生は推測されています。

八海山の本地仏は薬師如来。薬師如来の眷属は十二神将。
行者が八海山信仰を広めた。

そして、新潟県には十二山神社、十二神社が多い。


木曾御嶽山信仰では、霊神碑という石の石碑を建てる習俗があります。
亡くなった方の霊神碑を建立するのですが、この際、霊神号というものが与えられます。

八海山にも、この霊神碑が多く見られますよ。
霊神碑には、霊神名が刻まれていますが、建立者の氏名や出身地が彫り込まれていることがあるそうです。
建立者の出身地は様々で、新潟県以外の人や長岡市周辺や上越、新潟市という文字も見られます。
このことから、八海山信仰が、新潟県内外に広まっているということがわかります。

菊池先生は、自然災害の多い土地は、山ノ神を祀り、祭礼の際に唱えごとをしていたとおっしゃっています。
祭礼の際に、厄除けの呪言が目立っていて、そこに、修験者が関与しているのではないかというのです。

八海山信仰と十二山神社の流れ、関係性がありそうですね。

菊池先生は
「十二というのは具体的な数を意味するのではなく、むしろ極まった数の観念として神威の大きさを表しているようにも思える」と書かれています。

人々が昔から、自然を恐れ敬っていたことが、極まった数である十二という数字に表れているのかもしれませんね。

2017年1月14日土曜日

八海山のイラスト 黒禿ノ道から望む八海山

八海山
Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。
雪がすごくて、朝から除雪でヘロヘロです。



過去記事、「カマキリは大雪は予想するのか!?」でも書いたのですが、ナンテンやナナカマドの実が多くつくと、大雪になると言われています。

うちのナンテンはあまり実がつきませんでしたが、お隣のナンテンは見事にたくさんの実がついています。

植物の大雪予想、当たるのかもしれませんね。

この雪、明日も続くようです。
どんげふるんだよ!
ちょっと落ち着いてほしいです。


さて、今日のイラストは黒禿の道から望む「八海山」です。
またでた、黒禿ノ頭。
「どこですか?」と思って地図を見ましたら、笠倉山の手前にあるようですね。

等高線的には笠倉山に入っているような……でも違うか。
佐梨川と水無川の間に、隆起した山々があるわけですな。

で、佐梨川と水無川の間にある山々の尾根をつたって越後駒ヶ岳へと行くわけですかね。
駒ヶ岳から中ノ岳、兎岳へと向かう。

はっ!

地図を見ていて、いま気づきました。
山の山頂が県境になっている! すごい! と、今更気づくアホの子です。
さらに、川も山と山の間を走っている。川のスタート地点も山から。
そして平地になったところに、町が存在する。

風水で気の流れを読むとはよくいったものですね。
山や川の位置を把握して、風の流れなどを読んだのでしょうね。

土地の名前や山の名前にも、その場所の環境や特徴などが潜んでいる場合があります。
「黒禿」という名前も気になりますが、由来はいまのところわかりません←さとうがわかっていないという意味。

黒く禿げてみえる山なのでしょうかね。
黒く禿げるって、どんな風なんじゃ!?

2017年1月13日金曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 山の神の日はなぜ12日なのか?

越後駒ヶ岳

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
いやぁ、ガッツリ雪が降りましたね。
先週の雪見展のときは、積雪がほとんどなかったのですが、ここ1日~2日で1m超えの積雪。ビックリです。

今日のイラストは、黒禿の頭ルートから望む「越後駒ヶ岳」です。
黒禿の頭ルートって……すごい名前ですよね。
黒禿の頭は魚沼市の旧小出町にある772mの山です。

さて、昨日は山の神の日でしたね。
12月12日も山の神の日ですが、1月12日も山の神の日。

山の神に関する記事はこちら。

12月12日は、山の神の日
大山祇神の元に送り返された磐長姫はどうしたのでしょうか?


その土地土地により、山の神の日が違っているようですね。

ただ「12日」という日にちがキーになっています。
なぜ、山の神の日は12日なのか?
「12」という数字にどのような意味があるのか?

じつは、昨日の記事で上田銀山について書いたのですが、銀山の採鉱がスタートした後、
採掘場付近に十二山神社が設けられたそうです。

ちなみに、樹海ラインから銀山に向かう途中、上折立付近にある十二山神社には、坑道で事故にあった方々の供養塔があるそうです。

この、十二山神社(もしくは、十二神社)は全国各地に存在しているようですが(600余)
そのうちの70%が新潟県に存在しているということです。
ちなみに、新潟県は日本で一番、神社の数が多い県です。

新潟県でもとくに、魚沼地方に十二山神社は多く存在していると言います。
近世になって合併などで名前は変わったけれど、元は十二山神社だったという神社もあるそうです。
明神社、権現社、諏訪神社に合祀されたようですね。

十二山神社は「山」の文字がつくことからもわかるように、山の神を祀っています。
十二山神社が存在する場所も、山の麓がほとんどです。

ではなぜ、十二という数字がでてくるのか?

岩手県九戸郡山形村には「山の神は女性で、一年に十二の子を産む」という伝承が残っています。
この、子どもを産む日が毎月12日と決まっているといいます。

山の神が出産する日が「12日」であるため、狩猟をおこなうマタギの人たちは
12日を山の神の日として、信奉し入山を禁止していたそうです。

12月12日は、一年のうちの「しまいの山の日」。
 1月12日は、一年のうちの「はじまりの山の日」として、山の神の日のなかでも、神聖な日なのです。
山小屋などで十二人が座すのはよくないとして、木の人形を作って山中の祠に置いておくという風習もあるようですよ。

1月12日は、山の神に12個の餅を備えるそうです。
ただし、おさがりの餅を女性は食べてはいけないと言います。
子どもが授からなかったり、不作になったりするからだそうです。
その日(12日)以外に、食べると多産や豊作に恵まれるそうですよ♪

しかしなぜ「12」という数字が神聖な日とされたのでしょうか?

一年十二カ月、十二支、十二神将……。

魚沼地方で十二山神社が多い理由としては、八海山と八海山を訪れた修験者が関係しているようですよ。
山の神の日が12日というのも、修験者に関係があるようです。

長くなったので、今日はここまで(話を引っ張るよぉ~♪)続きは後日。