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2025年10月18日土曜日

便乗して八海山 2025

 

今日はおいしいSAKEを♪

便乗して、駒ヶ岳山頂より望む八海山のイラスト

でも、魚沼のお酒といえば緑川

なので、越後三山(駒ヶ岳、中ノ岳、八海山)



平成4(1992)年、10月18日のイラスト

巻機山より越後三山

2025年9月29日月曜日

魚沼三山ははなこさん 摩利支岳より駒ヶ岳

 


摩利支岳(八海山 ハツ峰)より駒ヶ岳

年不明、9月24日スケッチ

八海山は南魚沼市にある標高1778mの山。

越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山の3峰で越後三山(魚沼三山)と呼ばれています。

麓からもよく見える越後三山。

南魚沼市、魚沼市にはあちらこちらに景観ポイントがあって、越後三山の紹介看板が。

関越自動車道にも「越後三山」の看板が建っています。

越後三山は新潟県側から「八海山・中ノ岳・駒ヶ岳」と並んで見えるのですが、この並びを「はなこさん」と覚えておくと、どの峰がどの山かわかるそうです。

は⇒八海山

な⇒中ノ岳

こ⇒駒ヶ岳

はなこ山、ってなるわけですね。

2025年9月28日日曜日

小兎岳より駒ヶ岳

 


小兎岳より駒ヶ岳

平成11(1999)年、9月27日スケッチ

小兎岳は魚沼市と南魚沼市の境にある標高1855mの山。

中ノ岳と兎岳を結ぶ稜線上に兎岳は位置しています。

兎岳からは巻倉山へと続く分岐、大水上山へと続く分岐があります。

長野県にも兎岳(静岡県との境)と小兎岳がありますが、どちらも2000m級の山。

長野県の兎岳は山麓を流れる兎洞(沢)に由来するという説がありますが、新潟県の兎岳は名前の由来として「残雪の雪形」が兎に似ているからという説があります。

雪形が山名になった山は多く、代表的なのが残雪の雪形が「馬」に似ていることから名付けられた駒ヶ岳。

日本には駒ヶ岳がいっぱいあり、新潟県だけでも越後駒ヶ岳、朝日駒ヶ岳(村上市)、頸城駒ヶ岳(糸魚川市)と3つ。

雪形は農作業の目安(農事暦)とされてきたので、農作業の友であった馬が雪形として登場する(見えてしまう)ことが多いのでしょうかね?




2017年1月12日木曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 骨投沢の言い伝えを生み出した商人「河村瑞賢」

越後駒ヶ岳

今日のイラストは、八海山から望む「越後駒ヶ岳」です。

昨日、骨投沢の話を書かせて頂きました。
枝折峠を超えてはならぬ~骨投沢
銀山から採掘した銀を不正に持ち出させるのを阻止するため
(骨箱に入れて、里に持ち出そうとした人がいたので)
銀山を管理していた河村瑞賢は
「遺体や遺骨を、その沢を越えて持ち出そうとすると、明神様の祟りがある」
といういわれを作ったと言います。
その沢でみんなが骨を投げて行くので、骨投沢という名前がついたとのこと。

河村さん、なかなかのやり手です。

では、河村瑞賢とはどのような人物だったのでしょうか?
河村瑞賢は江戸時代の商人で、材木屋を営んでいました。

明暦の大火後、木曾福島の材木を買占め、土木建築を請負い、利益を得たといいます。
明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われています。

お寺の小姓に一目ぼれをした梅乃が、彼に恋い焦がれるまま亡くなってしまう。
娘を憐れんだ両親が、娘が愛した振袖を娘の棺にかけてやる。この振袖が転売され、それを買った娘が無くなり、また振袖が棺にかけられ転売される……それを何度か繰り返す。
振袖に因縁を感じ、寺の住職が焼いて供養をしようとすると、にわかに風が吹き火のついた振袖が舞い上がる。

というような伝説があり、小泉八雲(池田美術館の常設展にゆかりの品が展示されている、ラフカディオ・ハーンさんですよ~♪)も小説として物語を描いています。
ただ、作り話という説があり、放火が原因という説もあります。

話しを、河村さんに戻しましょう。
やり手の河村さんは、幕府に見込まれ、公共事業に関わるようになります。
江戸廻りの東廻り航路や、日本海沿岸から瀬戸内海を廻り江戸に入る西廻海運を確立しています。
そのほか、淀川や木津川の治水工事なども手掛けています。

魚沼の人は「銀山」という名称で呼んでいますが、正式名称は「上田銀山」と言います。
高田藩管轄の銀山が「上田銀山」会津藩側の銀山が「白峯(しらぶ)銀山」という名称で、
この二つを合わせて、大福銀山と呼んでいたそうです。
ちなみに、白峯銀山のほうが後から発見されました。

河村さんは、高田と会津両方の大福銀山の管理を行っていました。
全国各地で築港、治水、開拓、採掘などを手掛けた、現在で言うと土木のエキスパートと言える人物ですね。
晩年は松尾芭蕉と交流していたそうですよ。
元禄12年に83歳で天寿を全うしたと言いますが、当時の人にしてみると、かなりの長生きですよね。
足を使って動いたのが長生きの秘訣でしょうか?

河村瑞賢さん。商人&土木、あと他にもなにかありそうな方ですね。

2017年1月11日水曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 枝折峠を越えてはならぬ~骨投沢

駒の湯





今日のイラストは「越後駒ヶ岳」。駒の湯からの風景です。

年始に魚沼に帰郷したとき、とよじいに銀山のことを質問してみました。

銀山は昔、銀の採掘がおこなわれていたそうですが、
掘削しすぎて、河川の底を打ちぬいたため、川水が坑道内に入り込み
多数の死者をだし、以後、採掘が下火になっていったということです。

採掘した銀を麓まで運ぶための道が「銀の道」でした。

この採掘した銀を、自分の物にしようとしなかったのだろうか?
湯之谷付近で、銀細工などの店がなかったのだろうか?

と、以前、妹たちと話をしていたのです。
銀の工芸品などが魚沼に伝承されていないのが不思議だねと。

でも、一般人が銀を使うことなど、当時の幕府は許さなかったのでしょうね。
銀の持ち出し、持ち逃げは重い罪がかせられたようです。

銀を持ち出した者に石を抱かせ、拷問した場所が、銀山平のトンネル近くにある「石抱き」です。

そして、銀の道付近に「骨投沢」という沢があります。
この沢を越えるときは、親の骨も置いていかなければいけないという言い伝えがあったと
とよじいが言っていました。

遺骨を持って里に下りると言って、骨箱に銀を隠し持っていた人がいたそうです。
そこで、骨を持って沢を越えると、大明神がお怒りになり、祟りや罰が当たるという話しを
幕府の役人が作り出したと言います。
昔の人たちはそれを信じ、後世まで遺骨や遺体を持ち出さなかったそうです。

このいわれが迷信だと証明するため、近世になってからですが、
亡くなった親を(遺骨だったかな?)抱えて
骨投沢を越えた方がいらっしゃったと、とよじいが話してくれました。
もう一回、詳しく聞いてきますね。

その方の行動で、やっとみなさん、祟りはないのだと理解したということです。

とよじい、酔っ払っていたので、真偽のほどが定かではありませんので、
骨投沢については、要検証です。

2016年12月9日金曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 山で迷ったときはどうしたらいいのか!?



今日のイラストは「越後駒ヶ岳」です。

越後駒ヶ岳の詳細については、こちらをどうぞ 2017年カレンダー 1月 越後駒ヶ岳


昨日、親戚のお見舞いに大学病院へ行ってきました。

親戚に病室を訪ねたら「入退院入口はいってすぐのエレベーターに乗って三階だよ」ということでしたので、すぐに行けるかなと思ったのですが……。

駐車場が第一と第二とあり、そこから迷いがスタート。

どうやら、入退院入口から遠い駐車場に停めてしまったみたいで、入り口入ってすぐのエレベーターに乗って三階に行ったら、全くひとけがありませんでした。

たまたま通りかかった優しい女医さんが「どこに行かれるのですか?」と声をかけてくださり、方向を修正したのですが、教えてもらって進んだ先でまた迷い、前から歩いてきた看護師さんに場所を尋ね……三階に行ってまたグルグル迷い……。
一緒にいた息子に呆れられました。

帰りは息子が案内してくれたので、駐車場まで辿り着けました。ほっ。


院内を歩きながら息子と「山で迷ったらどうするか」という話になりました。

私は山の頂上は一つだから、上に登ったほうがいいと言ったのですが、息子は上に登ったほうがいいとは聞いたことがあるけれど、それでも遭難している人がいるのだから、みんながやらない方法を用いて、下に降りたほうがいいのではないかと言うのです。

病院の暗い廊下を歩きながら、二人で議論していました(笑)



山で迷ったときは上るでも下るでもなく。

「動かない」ことが大切なようです。
やはり、本能的に下りたくなるようですが、体力を温存するためにも安全な場所で動かないようにということです。

沢があると、そこを下って行けば麓に出ると思いますが、途中に崖や滝などがある場合もあります。また、水で滑りやすいので怪我をするケースも。
道に迷ったら、進まずに戻るのがセオリーのようですね。

じつは先月。妹と山道で迷いました。車に乗ってですが。
スタート地点から左右を間違えて進んだようで、その後グルグルグル迷いました。
スマホのGoogleマップを見ているにも関わらず迷うという……。

気を付けなければいけませんね。