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2025年3月17日月曜日

便乗して八海山

 

大力山より八海山

世の中に便乗して、八海山のイラスト。

大力山より駒ヶ岳
魚沼のお酒は緑川。


2024年12月12日木曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その1)


大倉喜八郎の生誕90歳を記念して建設された京都にある祇園閣は祇園祭の山鉾の形をしていますが、当初は山鉾ではなく違う形で建設する予定でした。

設計者の伊東忠太に「空前絶後」と言わしめた、喜八郎が依頼した形は『漏斗状になった傘』から祇園祭の山鉾の形になった理由を探ってみました。

俎倉山から飯豊連峰を望む

今日のイラストは、新潟県新発田市にある標高856mの俎倉山から飯豊連峰を望むです。新発田市は今日の話に出てくる、京都東山エリアにたたずむ「祇園閣」を建てた実業家、大倉喜八郎の郷里。

喜八郎がリクエストした「漏斗状になった傘の形」の建物


京都にある祇園閣は大倉喜八郎が伊東忠太に設計を依頼して建てた楼閣で、別邸「眞葛荘」と同時期の昭和2(1924)年に完成しました。

祇園閣の設計を忠太に依頼したとき喜八郎は『漏斗状になった傘の形』をした建物を建てて欲しいと要望したそうです。

これを受けて忠太は傘が逆さになった建物のスケッチを描き大倉喜八郎に見せたのですが採用とならず、その後改めて喜八郎から『祇園祭の山鉾の形』の建物というリクエストを受け、山鉾をモチーフにした建物を描いたというエピソードがあります。

大倉喜八郎が『漏斗状になった傘の形』の建物を伊東忠太にリクエストしたのは理由がありました。

当時のことを忠太は喜八郎の追悼文集「鶴翁餘影」で次のように書いています。

大倉翁から電話で呼び出され向島の別邸に行くと、翁は握手をしたのち次のような空前絶後の注文を提出した。

『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』

その依頼内容に驚きつつ忠太は「翁の性質として一旦言ひ出されたら決して無条件で取り消されぬのであるから」「無理とはおもひながら」案を練って示したが(野帳40にある祇園閣エスキースは洋傘を逆さにした面白い建物です)さすがの喜八郎も「これはいかん」と言って諦めたそうです。

その後、時日を経て忠太は再び向島別邸に呼ばれ喜八郎から

『京都の眞葛ケ原に小さい別荘を建てようと思ふ。その敷地内に祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』

と言われた。
そのとき、喜八郎は「寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明された」と忠太は書いています。そして「これならば物になるという自信が湧いたので即座に快諾した」と続けています。

参考:『鶴翁餘影』昭和4(1929)年発行

山鉾の形の祇園閣のエスキースも、洋傘が逆さになった形の祇園閣のエスキースも日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の1ページに並ぶような形で掲載されていますが、同資料【古写真 国内建築写真など】の中に祇園祭りの山鉾写真も掲載されています。

2024年7月12日 撮影
祇園祭山鉾惹き始め(前祭)菊水鉾

『鶴翁餘影』で忠太が書いていた「喜八郎が鉾の形式を説明するときに見せた寫眞(写真)」とデジタルアーカイブス【古写真 国内建築写真など】に掲載されている写真が同じ物だとしたら、喜八郎の持っていた写真だとしたら――なんていう想像をしてしまいました。

漏斗状になったのは和傘か洋傘か


伊東忠太が描いた「漏斗状に上向きに反轉した傘」のエスキースを見ると、傘の種類は「洋傘」のようですが、喜八郎は傘の種類について忠太にリクエストしていたのでしょうか?

そもそも喜八郎が「漏斗状になった傘の形」を見たのがいつなのか? 【上京する前の郷里にいたとき】とか【子どもの頃お使いにいったとき風の強い土手で】といった話が書かれているのを見ますが『鶴翁餘影』内の忠太が書いた文には、その辺のこと、傘の種類についても触れていません。

洋傘は幕末より前に日本に持ち込まれていたようですが、一般に普及しはじめたのは明治文明開化の頃。

もし「漏斗状の傘」の話が喜八郎が郷里にいるときの話だとしたら、喜八郎が上京したのが嘉永7(1854)年、江戸時代幕末なので洋傘はまだ普及していません。
※鶴友会発行「大倉鶴彦翁」には、安政元年10月頃と記されています。年号嘉永は嘉永7年の11月27日に安政に改元される。

ここで、ひとつ推測してみたのですが、喜八郎が江戸に行く途中に洋傘を持っている人を見つけて、その人の洋傘が風にあおられて漏斗状になり、それが旅立ちの思い出として鮮明に記憶に残って、年齢を重ねてから出立の決意を建物の形として残そうとした――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅱ)。

喜八郎が上京を決意して実行した時期は、嘉永6(1853)年ペリー率いる艦隊が浦賀沖に来航し、嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結されるなど、日本国内が大きく変わりはじめたとき。

嘉永7年にペリー提督一行が上陸したとき、洋傘を持っている人物が数名いて、日本人の多くが洋傘を目にしたそうです。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」

米船渡来見聞絵図
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/P15014?locale=ja


嘉永6(1853)年と翌年安政元(1854)年にペリー率いるアメリカ艦隊が来航したときの様子を描いた絵図。右端に傘の絵が描かれています。

喜八郎もその様子を目にしていたのかというと、喜八郎が上京したのは嘉永7年の10月頃で、そのときペリー艦隊は浦賀から離れて那覇、香港にいたので、喜八郎はペリー艦隊も洋傘も目にしていないでしょう。

では、上京する途中で洋傘を目にするような機会はあるか? と考えると新発田から新潟町へ出て江戸に向かったのなら、北前船の寄港地として栄えて賑わっていた新潟湊や全国屈指で祇園、新橋と並び称されていた古町花街で洋傘をさしている人が歩いていたかも――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅲ)。

そこで、古町芸妓さんを描いた浮世絵や写真の中に洋傘をさしているものがあるかも? と思って探してみましたが……洋傘を持っている古町芸妓さんの浮世絵や写真はありましたが明治以降の作品でした。

参考:豊原国周「戀湊女浪立田」明治8(1875)年

ただ、喜八郎が新発田から新潟町に出て江戸に向かったという想像Ⅲは正解でした。喜八郎のお姉さんが新潟町に嫁いでいて、そこに立ち寄ってから江戸に向かったという記述を見つけました(喜八郎上京いついてはまた後日)。

喜八郎が上京する前の新発田、上京途中の新潟町や江戸へ向かう街道でも洋傘を持つ人はまだいなかったと思います。「漏斗状の傘」は和傘だったのでしょう。

ではなぜ忠太は洋傘で描いたのか? 長くなったので続く。

2024年12月7日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その3)野帳のスケッチ

 

普光寺毘沙門堂
昭和61(1986)年スケッチ

一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料の野帳を見始めたのは、大倉喜八郎の京都の別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」のエスキースを探すためでした。

お目当ての「祇園閣」のエスキースを見つけるまで時間がかかりましたが、その間思わぬ発見があって、忠太が描いた普光寺のスケッチを見つけることができました。

日本建築学会 デジタルアーカイブス 伊東忠太の資料


一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料「野帳」は全部で75(55欠番)冊掲載されています。
1冊何ページもありますが、ページ毎にPDFになっていて、各冊に説明書きやサムネイルも丁寧に説明されていて、どの野帳にどんな内容が書かれているのかわかりやすいです。

資料を整理された方々のご苦労がわかります。資料をデジタルで拝見できるのは、とてもありがたいです。

野帳には建造物スケッチや調査資料のほか、目移りする魅惑的な風刺画や妖怪や神獣のイラストなど沢山描かれていて、お目当ての「祇園閣」のエスキース探しを忘れてしまうほど野帳を見るのに夢中になってしまったのです。

【野帳】は横長のノートですが「祇園閣」は高さがあるので、横長ノートを縦方向でエスキースが描かれていて(天地が左右になる)探しベタなせいもあり見落とし、野帳を二周くらい見て回って「祇園閣」のエスキースを【野帳40】で発見しました。

野帳50に描かれていた普光寺毘沙門堂


そんな【野帳】閲覧の中で「やった!」という思わぬ発見がありました。

【野帳50】大正六年後 雑記 大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃の説明文に「新潟県における文部省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ」と書かれています。

※【野帳33】には「内務省古社寺調査」と書かれていたのに【野帳55】では「文部省古社寺調査」?
それは、古社寺保存法の所管が大正2(1913)年に内務省から文部省へとなったからでした。

新潟県という文字に惹かれて【野帳50】のPDFを開いてみると、普光寺毘沙門堂について記した文とスケッチがあったのです! 

細かい建築部材のスケッチや古文書からの抜粋文などが書かれているのですが、8ページのスケッチは普光寺山門(仁王門)じゃないのかな? と。
あくまでも、スケッチと普光寺山門で自分で撮影した写真を見比べての私見ですが。

普光寺山門(仁王門)正面から回廊方面

普光寺山門(仁王門)正面

でも、下浦佐村天王寺 永徳二年一一月一三附 寄進状(もっと書かれていましたが読めませんでした) といった文字や、毘沙門堂という文字と部材スケッチ、多聞天堂という文字の横に平面図も描かれています。

普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定された時期は?


【野帳50】の説明文にある大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃に野帳を伊東忠太が執筆していたとしたら、それは普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定される前となります。

彌彦神社の毘沙門堂の特別保護建造物指定は「大正6年8月13日」。
参考:弥彦村 観光情報 文化財 

ちなみに、彌彦神社は明治45(1912)年に火災で社殿が焼失し大正5(1916)年に伊東忠太設計で社殿が再建されているので、彌彦神社境内末社十柱神社社殿の特別保護建造物指定と社殿再建が平行で進行していたのでしょう。

普光寺毘沙門堂も大正6年に特別保護建造物に指定されています。月日はいつなのか? という点ですが、資料を見つけられませんでした。大正六年八月までの間に指定された、ということは間違いなさそうです。

その理由は、大正6年に出版された「特別保護建造物并国宝目録」黒板勝美著に普光寺毘沙門堂と掲載されていて、同書【例言一】には次のように掲載されています。

本書は明治三十年十二月より大正六年八月(最近指定)に至る間に指定せられたる特別保護建造物及び國寶一切の目録なり。

つまり、普光寺毘沙門堂は大正六年の八月までの間に、特別保護建造物に指定されていたということ。

【野帳50】大正5年10月~大正6年2月までの間に伊東忠太が普光寺を訪れていたら、彼は昭和6年の火災で焼失する前の毘沙門堂を見たと思います。
【野帳50】に描かれているスケッチは焼失前の毘沙門堂のどこかを写したものなのでしょう。

忠太が何故、普光寺を訪れたのか? ということが気になりますね。

彌彦神社の再建と古社寺保存会委員としての活動、自身のフィールドワークを伊東忠太が新潟県内で行っていたと想像するとワクワクしますね。

2024年12月1日日曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その2)古社寺保存会

 


今日のイラストは、普光寺の山門(回廊側から)
昭和60(1985)年3月3日のスケッチ

新潟県南魚沼市にある越後浦佐普光寺の毘沙門堂と、新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後一宮彌彦神社はどちらも伊東忠太が設計を手がけています。
この2つの建物は、以前の建造物が火災で焼失し、忠太が再建設計を行ったという共通点がります。それ以外にも、毘沙門堂と彌彦神社には忠太が関係する共通点がありました。

越後一宮彌彦神社と普光寺毘沙門堂―伊東忠太再建設計


普光寺 毘沙門堂は室町前期の建物と言われていましたが、昭和6(1931)年に火災で焼失してしまいました。

その後、昭和12(1937)年、伊東忠太の設計で再建されたのが、現在の毘沙門堂。

残念ながら焼失してしまいましたが、室町前期に建てられたという毘沙門堂は大正6(1917)年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定されていました。

そして、越後一宮彌彦神社境内末社の十柱神社社殿も同年に特別保護建造物に指定されています。

参考:文化庁 文化財オンライン 弥彦神社境内末社十柱神社社殿


また残念なことに彌彦神社(社殿)も明治45(1912)年に火災で焼失し、大正5(1916)年に伊東忠太設計で再建されています。

十柱神社社殿は火災を逃れ、大正6(1917)年の特別保護建造物に指定されました。

彌彦神社と毘沙門堂は、特別保護建造物・火災・伊東忠太設計で再建という共通点があるのです。

古社寺保存会委員としての活動


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内にある、伊東忠太資料【野帳33】の説明文に、明治33(1900)年3~8月「内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの」と書かれています。

このとき、伊東忠太は内務省の「古社寺保存会委員」として活動していました。

明治初期、明治維新の混乱や改革で、美術品や宝物の輸出、仏像や建造物の破壊などが著しくなり、文化財が危機にさらされたのです。

これを保護するため、国は調査を行い「古器旧物」(古美術)維持修理のための保存金を公布しました。

その後、建物も維持保護するべきだという気運が高まり、古社寺の建物や宝物類を保護するための法律「古社寺保存法」が明治30(1897)年に成立します。
これに先立ち、古社寺の調査や学術的指導などを行うための諮問機関として「古社寺保存会」が明治29年に設置されています。

【野帳33】の説明文にあるように伊東忠太は、古社寺保存会の委員として日本各地を巡っていたのですね。

古社寺保存法については文部科学省のサイトに掲載されていますが、国立公文書館のサイトがわかりやすく当時の資料も見られるので、そちらのリンクを貼らせていただきます。

参考:国立公文書館 ようこそ歴史資料の宝庫へ Ⅰ歴史資料の世界③公文書の世界 15.明治時代の文化財保護政策

2024年8月23日金曜日

北アルプス伝言板

 


有明山がはちまきをすると雨となる

常念岳に朝日があたるとその日は晴

雲が少しもなくて穂高から白馬岳まではっきり見えるとき、近いうちに天気が変わる

梓川の音がとどろくときは、すぐ雨になる

穂高に虹が立つと晴れる

常念の峰だけ出て雲が帯のように引くと雨に

穂高が間近に見えると雨が降る

12時前にやんだ雨は次の日また降り出す

朝雨は天気になる

2024年5月20日月曜日

づくし


 

昨年は筍がでない年だったけれど、今年2024年は筍が豊作とのこと。

筍には裏年と表年があって、出る年と出ない年が1年ごとに繰り返すそうです。


筍というと、モウソウチク(孟宗竹)が一般的ですが、今日アップしたイラストに描かれているのは、チシマザサ(千島笹)。

標高の高い山地に多く育つ植物で、雪の重みで根元が曲がる、根元が土から斜めに生えているから、ネマガリタケ(根曲がり竹)とも(私はネマガリタケとして認識していました)呼ばれています。

とよじいも「根曲がり竹の子」と書いていますね。


さて、先日モウソウチクの筍を2本頂戴したので、いろいろな料理を作りました。

1日目、筍ご飯と味噌汁。

2日目、プラスでうま煮。

夜、朝、昼と筍づくしを美味しくいただいておりましたが、昼餉の後に急なめまいが……。

寒気と吐き気とめまいがして横になって、その後朝まで……。

翌朝には不調は治っていたのですが、めまいがしたときに、何となく考えていたことがあります。


それは……「もしかして、筍食べすぎた?」

後日ネット検索しましたら、やはり食べ過ぎはよくないという記事が多々見つかりました。

体質や体調にもよるのでしょうが、

過ぎたるは猶及ばざるが如し、中庸が大切……食材は適量が大切。


美味しくても「づくし」は注意と痛感しました。

とはいえ、実は今年2回目のづくし症状。

1回目の食材と様子はまた別の機会に……。


筍について【参考】サイト:農林水産省 aff03 March 2021号

2024年3月4日月曜日

春先花 冬花


 

尾根の雪も落ち、雑木が多く出て、笹の緑やマンサクが満開に近い。

雪をひろって登ると、進む先にピッピッピーと小鳥たちの声。

足を止めて見ると、マンサクの花をついばんでいる。

小動物にもうれしい春近しか。

(かわりに兎がいない)

2006年3月27日 スケッチ

2024年3月3日日曜日

山のスケッチ展

 


山のスケッチ展

友人夫妻や所属していたハイクカタッコ会員諸氏との山行時の記録的な絵日記・スケッチ(水彩)絵を展示しています。

御笑覧いただければ幸いです。

期日:3月1日(金)~26日(火)

平日:9時~16時
土曜日:9時~12時
休館日:日曜・祝日

場所:伊米ヶ崎公民館 1階 談話室
   魚沼市虫野59番地

※料金無料、写真撮影OK







3月3日


越後うらさの毘沙門さまは

国の宝よ福の神サ

三月三日の深雪の中で

裸はだしの押合い祭り

ハア、サンヨ、サンヨ、サンヨ、サンヨー 


越後浦佐 毘沙門堂裸押合大祭

令和2年度より開催日は3月第1土曜日に変更となっています。

令和6年度は3月2日(土)に開催されました。

今シーズンは積雪が少なく、3月1日(金)には根雪がなく土が出て、春のようでした。

1日2日の深夜から雪が降り始め、2日には地面が茶色から白へと変わり。

深雪の中で、裸はだしの押合い祭り

サンヨ、サンヨ。

2023年12月16日土曜日

八海山 千本槍小屋

 


八海山は、南魚沼市にある標高1778mの山。

イラストは9合目の千本槍(ヒノキ)小屋。

平成11年4月12日スケッチ。

2023年7月20日木曜日

北海道 雄阿寒岳 雌阿寒岳



ハガキが家に着くまで、

山行きを終えて一路、越後路でしょうかね。

今回も多くの思い出が荷につまりましたね。

楽しさを 背に治めての 雲の中

雄阿寒 雌阿寒 平成9年7月9日

2023年7月5日水曜日

南部トラノオと早池峰


 

無理をして来た。

良かった……昨日の山、岩手・焼石岳の水と花。

本日(多分昨日になる)早池峰岳、快晴。

花と岩肌を登る。

三時間はふっと、鳥海を思い、利尻を、そして尾瀬と。

今度は貴方の思い出を作る為に出行しましょう。

又ね……。

南部トラノオと早池峰

平成6年7月16日

2023年7月3日月曜日

北岳山頂近く

 


遠いアプローチです。

そのかわり岳々は美しく雄々しく、背に富士をしたり横にしたり。

花は満々と咲き。

約束の二人で登山をいつかはと思いつつ、歩を進めます。


北岳にて 山野好男

2023年7月2日日曜日

みちのく山行2日目も一日晴天

 


早池峰山 小田越

平成6年7月16日

河原坊からの正面コースも急登で長いと思ったが、帰路の(小田越)コースも長い、そして暑い。

みちのく山行2日目も一日晴天。

初日、岩手に着いた時から梅雨が明けた。

明日も晴れそう。


登山メモ:早池峰山(1917m) 岩手県

2023年7月1日土曜日

初めて通過の白馬大池が美しい


 雷鳥坂から小蓮華山手前で大休止。

ボンベで湯を、そして、ティータイム。

コーヒーもパンも美味しい。

初めて通過の白馬大池が美しい。

平成3年8月14日。

2023年6月29日木曜日

富士を絵にするなどと言う事が無理なのだ

 


大菩薩より富士

平成3年2月17日


昨日の富士は美しかった(中央高速道)が、登るにつれて風にのって雲が来て、富士の頭をつつんで澄んだ姿はみられない。

無理に眼で絵にするが?

富士を絵にするなどと言う事がむりなのだ。

登山の一ページとしておく。