こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。
浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。
今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。
話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。
毘沙門堂市と多聞天祭礼市
現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。
浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。
裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。
また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。
毘沙門天と多聞天について【余談】
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。
余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。
話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。
毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。
ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。
普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。
毘沙門堂の毘沙門市
ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。
市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。
徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。
縮の販売で堀之内とトラブル!?
堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。
江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。
堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。
十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。
ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。
ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。
ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!
浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。
【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】
ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。
起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。
菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。
菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。
なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。