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2024年12月12日木曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その1)


大倉喜八郎の生誕90歳を記念して建設された京都にある祇園閣は祇園祭の山鉾の形をしていますが、当初は山鉾ではなく違う形で建設する予定でした。

設計者の伊東忠太に「空前絶後」と言わしめた、喜八郎が依頼した形は『漏斗状になった傘』から祇園祭の山鉾の形になった理由を探ってみました。

俎倉山から飯豊連峰を望む

今日のイラストは、新潟県新発田市にある標高856mの俎倉山から飯豊連峰を望むです。新発田市は今日の話に出てくる、京都東山エリアにたたずむ「祇園閣」を建てた実業家、大倉喜八郎の郷里。

喜八郎がリクエストした「漏斗状になった傘の形」の建物


京都にある祇園閣は大倉喜八郎が伊東忠太に設計を依頼して建てた楼閣で、別邸「眞葛荘」と同時期の昭和2(1924)年に完成しました。

祇園閣の設計を忠太に依頼したとき喜八郎は『漏斗状になった傘の形』をした建物を建てて欲しいと要望したそうです。

これを受けて忠太は傘が逆さになった建物のスケッチを描き大倉喜八郎に見せたのですが採用とならず、その後改めて喜八郎から『祇園祭の山鉾の形』の建物というリクエストを受け、山鉾をモチーフにした建物を描いたというエピソードがあります。

大倉喜八郎が『漏斗状になった傘の形』の建物を伊東忠太にリクエストしたのは理由がありました。

当時のことを忠太は喜八郎の追悼文集「鶴翁餘影」で次のように書いています。

大倉翁から電話で呼び出され向島の別邸に行くと、翁は握手をしたのち次のような空前絶後の注文を提出した。

『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』

その依頼内容に驚きつつ忠太は「翁の性質として一旦言ひ出されたら決して無条件で取り消されぬのであるから」「無理とはおもひながら」案を練って示したが(野帳40にある祇園閣エスキースは洋傘を逆さにした面白い建物です)さすがの喜八郎も「これはいかん」と言って諦めたそうです。

その後、時日を経て忠太は再び向島別邸に呼ばれ喜八郎から

『京都の眞葛ケ原に小さい別荘を建てようと思ふ。その敷地内に祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』

と言われた。
そのとき、喜八郎は「寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明された」と忠太は書いています。そして「これならば物になるという自信が湧いたので即座に快諾した」と続けています。

参考:『鶴翁餘影』昭和4(1929)年発行

山鉾の形の祇園閣のエスキースも、洋傘が逆さになった形の祇園閣のエスキースも日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の1ページに並ぶような形で掲載されていますが、同資料【古写真 国内建築写真など】の中に祇園祭りの山鉾写真も掲載されています。

2024年7月12日 撮影
祇園祭山鉾惹き始め(前祭)菊水鉾

『鶴翁餘影』で忠太が書いていた「喜八郎が鉾の形式を説明するときに見せた寫眞(写真)」とデジタルアーカイブス【古写真 国内建築写真など】に掲載されている写真が同じ物だとしたら、喜八郎の持っていた写真だとしたら――なんていう想像をしてしまいました。

漏斗状になったのは和傘か洋傘か


伊東忠太が描いた「漏斗状に上向きに反轉した傘」のエスキースを見ると、傘の種類は「洋傘」のようですが、喜八郎は傘の種類について忠太にリクエストしていたのでしょうか?

そもそも喜八郎が「漏斗状になった傘の形」を見たのがいつなのか? 【上京する前の郷里にいたとき】とか【子どもの頃お使いにいったとき風の強い土手で】といった話が書かれているのを見ますが『鶴翁餘影』内の忠太が書いた文には、その辺のこと、傘の種類についても触れていません。

洋傘は幕末より前に日本に持ち込まれていたようですが、一般に普及しはじめたのは明治文明開化の頃。

もし「漏斗状の傘」の話が喜八郎が郷里にいるときの話だとしたら、喜八郎が上京したのが嘉永7(1854)年、江戸時代幕末なので洋傘はまだ普及していません。
※鶴友会発行「大倉鶴彦翁」には、安政元年10月頃と記されています。年号嘉永は嘉永7年の11月27日に安政に改元される。

ここで、ひとつ推測してみたのですが、喜八郎が江戸に行く途中に洋傘を持っている人を見つけて、その人の洋傘が風にあおられて漏斗状になり、それが旅立ちの思い出として鮮明に記憶に残って、年齢を重ねてから出立の決意を建物の形として残そうとした――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅱ)。

喜八郎が上京を決意して実行した時期は、嘉永6(1853)年ペリー率いる艦隊が浦賀沖に来航し、嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結されるなど、日本国内が大きく変わりはじめたとき。

嘉永7年にペリー提督一行が上陸したとき、洋傘を持っている人物が数名いて、日本人の多くが洋傘を目にしたそうです。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」

米船渡来見聞絵図
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/P15014?locale=ja


嘉永6(1853)年と翌年安政元(1854)年にペリー率いるアメリカ艦隊が来航したときの様子を描いた絵図。右端に傘の絵が描かれています。

喜八郎もその様子を目にしていたのかというと、喜八郎が上京したのは嘉永7年の10月頃で、そのときペリー艦隊は浦賀から離れて那覇、香港にいたので、喜八郎はペリー艦隊も洋傘も目にしていないでしょう。

では、上京する途中で洋傘を目にするような機会はあるか? と考えると新発田から新潟町へ出て江戸に向かったのなら、北前船の寄港地として栄えて賑わっていた新潟湊や全国屈指で祇園、新橋と並び称されていた古町花街で洋傘をさしている人が歩いていたかも――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅲ)。

そこで、古町芸妓さんを描いた浮世絵や写真の中に洋傘をさしているものがあるかも? と思って探してみましたが……洋傘を持っている古町芸妓さんの浮世絵や写真はありましたが明治以降の作品でした。

参考:豊原国周「戀湊女浪立田」明治8(1875)年

ただ、喜八郎が新発田から新潟町に出て江戸に向かったという想像Ⅲは正解でした。喜八郎のお姉さんが新潟町に嫁いでいて、そこに立ち寄ってから江戸に向かったという記述を見つけました(喜八郎上京いついてはまた後日)。

喜八郎が上京する前の新発田、上京途中の新潟町や江戸へ向かう街道でも洋傘を持つ人はまだいなかったと思います。「漏斗状の傘」は和傘だったのでしょう。

ではなぜ忠太は洋傘で描いたのか? 長くなったので続く。

2024年12月7日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その3)野帳のスケッチ

 

普光寺毘沙門堂
昭和61(1986)年スケッチ

一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料の野帳を見始めたのは、大倉喜八郎の京都の別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」のエスキースを探すためでした。

お目当ての「祇園閣」のエスキースを見つけるまで時間がかかりましたが、その間思わぬ発見があって、忠太が描いた普光寺のスケッチを見つけることができました。

日本建築学会 デジタルアーカイブス 伊東忠太の資料


一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料「野帳」は全部で75(55欠番)冊掲載されています。
1冊何ページもありますが、ページ毎にPDFになっていて、各冊に説明書きやサムネイルも丁寧に説明されていて、どの野帳にどんな内容が書かれているのかわかりやすいです。

資料を整理された方々のご苦労がわかります。資料をデジタルで拝見できるのは、とてもありがたいです。

野帳には建造物スケッチや調査資料のほか、目移りする魅惑的な風刺画や妖怪や神獣のイラストなど沢山描かれていて、お目当ての「祇園閣」のエスキース探しを忘れてしまうほど野帳を見るのに夢中になってしまったのです。

【野帳】は横長のノートですが「祇園閣」は高さがあるので、横長ノートを縦方向でエスキースが描かれていて(天地が左右になる)探しベタなせいもあり見落とし、野帳を二周くらい見て回って「祇園閣」のエスキースを【野帳40】で発見しました。

野帳50に描かれていた普光寺毘沙門堂


そんな【野帳】閲覧の中で「やった!」という思わぬ発見がありました。

【野帳50】大正六年後 雑記 大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃の説明文に「新潟県における文部省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ」と書かれています。

※【野帳33】には「内務省古社寺調査」と書かれていたのに【野帳55】では「文部省古社寺調査」?
それは、古社寺保存法の所管が大正2(1913)年に内務省から文部省へとなったからでした。

新潟県という文字に惹かれて【野帳50】のPDFを開いてみると、普光寺毘沙門堂について記した文とスケッチがあったのです! 

細かい建築部材のスケッチや古文書からの抜粋文などが書かれているのですが、8ページのスケッチは普光寺山門(仁王門)じゃないのかな? と。
あくまでも、スケッチと普光寺山門で自分で撮影した写真を見比べての私見ですが。

普光寺山門(仁王門)正面から回廊方面

普光寺山門(仁王門)正面

でも、下浦佐村天王寺 永徳二年一一月一三附 寄進状(もっと書かれていましたが読めませんでした) といった文字や、毘沙門堂という文字と部材スケッチ、多聞天堂という文字の横に平面図も描かれています。

普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定された時期は?


【野帳50】の説明文にある大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃に野帳を伊東忠太が執筆していたとしたら、それは普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定される前となります。

彌彦神社の毘沙門堂の特別保護建造物指定は「大正6年8月13日」。
参考:弥彦村 観光情報 文化財 

ちなみに、彌彦神社は明治45(1912)年に火災で社殿が焼失し大正5(1916)年に伊東忠太設計で社殿が再建されているので、彌彦神社境内末社十柱神社社殿の特別保護建造物指定と社殿再建が平行で進行していたのでしょう。

普光寺毘沙門堂も大正6年に特別保護建造物に指定されています。月日はいつなのか? という点ですが、資料を見つけられませんでした。大正六年八月までの間に指定された、ということは間違いなさそうです。

その理由は、大正6年に出版された「特別保護建造物并国宝目録」黒板勝美著に普光寺毘沙門堂と掲載されていて、同書【例言一】には次のように掲載されています。

本書は明治三十年十二月より大正六年八月(最近指定)に至る間に指定せられたる特別保護建造物及び國寶一切の目録なり。

つまり、普光寺毘沙門堂は大正六年の八月までの間に、特別保護建造物に指定されていたということ。

【野帳50】大正5年10月~大正6年2月までの間に伊東忠太が普光寺を訪れていたら、彼は昭和6年の火災で焼失する前の毘沙門堂を見たと思います。
【野帳50】に描かれているスケッチは焼失前の毘沙門堂のどこかを写したものなのでしょう。

忠太が何故、普光寺を訪れたのか? ということが気になりますね。

彌彦神社の再建と古社寺保存会委員としての活動、自身のフィールドワークを伊東忠太が新潟県内で行っていたと想像するとワクワクしますね。

2024年11月30日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その1)まずは米山から

 

米山の山野草

今日のイラストは新潟県の上越市と柏崎市の境にある標高993mの米山に咲く山野草。

伊東忠太の残した資料


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内、建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料に、伊東忠太が書いた日記や書簡、古写真などが掲載されています。

これは、平成8(1996)年に伊東忠太のご遺族から寄贈された貴重資料を、整備委員会の方々が数年かけて調査整理作業を行い、データ化して閲覧利用できるようにしたものです。

資料の内容は

 ・野帳:明治27(1894)年頃~昭和22(1947)年頃にかけて、調査旅行の記録やスケッチ、建築作品の下絵、日 常記録などメモとして書かれたノート74冊

 ・葉書絵:大正3(1914)7年~昭和25(1950)年にかけて、伊東忠太が描いた絵葉書3717枚。

 ※そのうち、500枚が『阿修羅帳』として出版されています。

 ・うきよの旅:明治22(1889)年~明治26(1893)年の東京帝都大学工学部造家学科在籍時の日記。

 ・忠太自画傳,怪奇図案集甲,修学旅行記:単体で存在する記録や漫画。

 ・法隆寺関係資料:法隆寺に関するスケッチや写真、メモなど。

 ・書簡(リンクなし):お手紙。

 ・古写真:国内外の調査で撮影した古社寺や遺跡など。

 ・拓本:石碑から採取したもの。

 ・地図:国内外の地図類。

 ・スケッチ,下絵,書類:上杉神社再建や法隆寺などの図面ほか。印刷や複製が混在する。
 
・書類

という11の内訳で構成され掲載されています。

総資料数は8969点とのことで、最初の【野帳】は75項目(55欠番)にわかれていて、1項目ごとに伊藤忠太が記載したノート数十ページ(PDF)が掲載されています。

野帳33に描かれていた、米山のスケッチ


伊東忠太の野帳に、大倉喜八郎の京都にある別荘『眞葛荘』地内に作られた祇園閣の構想スケッチが描かれているというので、野帳を検索してみました。

大倉喜八郎は祇園閣を作るとき、伊東忠太に『傘が逆さになった(おちょこ)形』の建物を、という要望を出したそうです。
本当に傘が逆さになった建物を忠太が描いています。
※野帳40に収録されています

どうして、傘が逆さの建物をリクエストしたのか、というのは理由があったそうですが、そのお話しは後日……。

この、洋傘を逆さにした建物のイラストを見たくて、伊東忠太の野帳をずっと見ていましたら、

野帳33 福井、石川、富山、新潟、兵庫、高知、京都、奈良、滋賀
明治33(1900)年3月~8月にかけて行われた北陸調査(福井・石川・富山・新潟)で伊東忠太が描いた新潟県の米山のスケッチを見つけました。4月24日の日付で【柏崎より米山を望む】と。

これは、伊東忠太が内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの。

そして、内務省古社寺調査が、彌彦神社と普光寺毘沙門堂に関連するキーワードなのですが、このお話しも後日……。

今日は米山が主役。

新潟県の上越市と柏崎市の境にある標高993mの米山は、日本海を航海する船の目印とされてきた霊峰。

じつは、先日の、フォッサマグナの東側【新発田小出構造線】で紹介した谷文晁も米山を描いていて、文化9(1812)年に発行された全国から90の山を選んで刊行された『日本名山図会』に載っています。※こちらは以下の図書データベースで見ることができます。
『日本名山図会』(東京藝術大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース

見ている方向が違うのか、谷文晁の米山と伊東忠太の米山とでは、山裾の広がりが反対になっていて面白いです。

さて、伊東忠太の野帳。おちょこの祇園閣エスキースを探すために検索していて見つけたのは、米山スケッチだけではありませんでした。

なんと【新潟県における文化省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ】が……つづく。

2024年8月23日金曜日

北アルプス伝言板

 


有明山がはちまきをすると雨となる

常念岳に朝日があたるとその日は晴

雲が少しもなくて穂高から白馬岳まではっきり見えるとき、近いうちに天気が変わる

梓川の音がとどろくときは、すぐ雨になる

穂高に虹が立つと晴れる

常念の峰だけ出て雲が帯のように引くと雨に

穂高が間近に見えると雨が降る

12時前にやんだ雨は次の日また降り出す

朝雨は天気になる

2024年6月5日水曜日

柳絮(リュウジョ)とは

 


柳絮(リュウジョ)

5月中旬、東大寺を訪れた知人が、大仏殿にフワフワ埃のような物が舞っていて気になったというので、フワフワしたものが何か調べてみました。

東大寺の境内(大湯屋)に丸葉柳(アカメヤナギ)という柳があり、春(初夏)に種子を包んだ白い綿毛、柳絮を飛ばすのだそうです。

大仏殿の参道にもアカメヤナギ(保存樹の説明板に書かれている名称。Wikipediaでは丸葉柳の別名としてアカメヤナギと表記)があります。

新緑の中、白い柳絮が舞っている動画が東大寺公式SNSにアップされていました。

動画もいいですが、小説家・田山録弥の『花二三ヶ所』に柳絮を描いた(以下の)美しい一説があります。


もう一つ春の花の印象として忘れられないのは、北京の郊外の玉泉山のあの天下第一泉の碑の立つてゐるところで、柳の花の飛ぶのを見たことであつた。

柳絮雪の如しとか、柳絮満天に飛ぶとかよく言つてゐるが、それを眼にしない中は、私は例の支那人の誇張癖とばかり思つてゐたのである。

それにしても、その美しさは! そののどかさは! 丸で粉雪か何ぞのやうに池の上に千点万点落ちて来るさまは!

それにあたりには蛙が頻りに鳴いてゐる。池には天下第一泉の清い水が滾々として湧き出してゐる。日は麗かに照つてゐる。実際、唐扇にでも書いてありさうなシインであつたのを記憶してゐる。

【引用:田山録弥『花二三ヶ所』】


東大寺は大湯屋の丸葉柳から舞う柳絮が風物詩のようですが、シダレヤナギをはじめとしていろいろな種類の柳があり、初夏にはあちこちで果穂がはじけて種を包んだ綿毛が飛んでいく様子が見られるそうです。

知人は柳絮を埃と思っていましたが、私も今までタンポポの綿毛? と思っていたものが柳絮だったかもしれない……。

今度フワフワするものを見たらケサランパサランかも!? などと思わずよくよく確認しよう。


上高地のネイチャーガイドファイブセンスさんのブログに

柳絮を見て柳の種類を見分けることができるか? という記事が掲載されていました。

【上高地コラム】初夏の風物詩「柳絮」の見分け

上高地でも柳絮は初夏の風物詩とのことです。

7月、8月が楽しみですね。

2024年5月20日月曜日

づくし


 

昨年は筍がでない年だったけれど、今年2024年は筍が豊作とのこと。

筍には裏年と表年があって、出る年と出ない年が1年ごとに繰り返すそうです。


筍というと、モウソウチク(孟宗竹)が一般的ですが、今日アップしたイラストに描かれているのは、チシマザサ(千島笹)。

標高の高い山地に多く育つ植物で、雪の重みで根元が曲がる、根元が土から斜めに生えているから、ネマガリタケ(根曲がり竹)とも(私はネマガリタケとして認識していました)呼ばれています。

とよじいも「根曲がり竹の子」と書いていますね。


さて、先日モウソウチクの筍を2本頂戴したので、いろいろな料理を作りました。

1日目、筍ご飯と味噌汁。

2日目、プラスでうま煮。

夜、朝、昼と筍づくしを美味しくいただいておりましたが、昼餉の後に急なめまいが……。

寒気と吐き気とめまいがして横になって、その後朝まで……。

翌朝には不調は治っていたのですが、めまいがしたときに、何となく考えていたことがあります。


それは……「もしかして、筍食べすぎた?」

後日ネット検索しましたら、やはり食べ過ぎはよくないという記事が多々見つかりました。

体質や体調にもよるのでしょうが、

過ぎたるは猶及ばざるが如し、中庸が大切……食材は適量が大切。


美味しくても「づくし」は注意と痛感しました。

とはいえ、実は今年2回目のづくし症状。

1回目の食材と様子はまた別の機会に……。


筍について【参考】サイト:農林水産省 aff03 March 2021号

2024年3月4日月曜日

春先花 冬花


 

尾根の雪も落ち、雑木が多く出て、笹の緑やマンサクが満開に近い。

雪をひろって登ると、進む先にピッピッピーと小鳥たちの声。

足を止めて見ると、マンサクの花をついばんでいる。

小動物にもうれしい春近しか。

(かわりに兎がいない)

2006年3月27日 スケッチ

2024年3月3日日曜日

山のスケッチ展

 


山のスケッチ展

友人夫妻や所属していたハイクカタッコ会員諸氏との山行時の記録的な絵日記・スケッチ(水彩)絵を展示しています。

御笑覧いただければ幸いです。

期日:3月1日(金)~26日(火)

平日:9時~16時
土曜日:9時~12時
休館日:日曜・祝日

場所:伊米ヶ崎公民館 1階 談話室
   魚沼市虫野59番地

※料金無料、写真撮影OK







3月3日


越後うらさの毘沙門さまは

国の宝よ福の神サ

三月三日の深雪の中で

裸はだしの押合い祭り

ハア、サンヨ、サンヨ、サンヨ、サンヨー 


越後浦佐 毘沙門堂裸押合大祭

令和2年度より開催日は3月第1土曜日に変更となっています。

令和6年度は3月2日(土)に開催されました。

今シーズンは積雪が少なく、3月1日(金)には根雪がなく土が出て、春のようでした。

1日2日の深夜から雪が降り始め、2日には地面が茶色から白へと変わり。

深雪の中で、裸はだしの押合い祭り

サンヨ、サンヨ。

2023年12月16日土曜日

八海山 千本槍小屋

 


八海山は、南魚沼市にある標高1778mの山。

イラストは9合目の千本槍(ヒノキ)小屋。

平成11年4月12日スケッチ。

2023年7月20日木曜日

北海道 雄阿寒岳 雌阿寒岳



ハガキが家に着くまで、

山行きを終えて一路、越後路でしょうかね。

今回も多くの思い出が荷につまりましたね。

楽しさを 背に治めての 雲の中

雄阿寒 雌阿寒 平成9年7月9日

2023年7月5日水曜日

南部トラノオと早池峰


 

無理をして来た。

良かった……昨日の山、岩手・焼石岳の水と花。

本日(多分昨日になる)早池峰岳、快晴。

花と岩肌を登る。

三時間はふっと、鳥海を思い、利尻を、そして尾瀬と。

今度は貴方の思い出を作る為に出行しましょう。

又ね……。

南部トラノオと早池峰

平成6年7月16日

2023年7月3日月曜日

北岳山頂近く

 


遠いアプローチです。

そのかわり岳々は美しく雄々しく、背に富士をしたり横にしたり。

花は満々と咲き。

約束の二人で登山をいつかはと思いつつ、歩を進めます。


北岳にて 山野好男

2023年7月2日日曜日

みちのく山行2日目も一日晴天

 


早池峰山 小田越

平成6年7月16日

河原坊からの正面コースも急登で長いと思ったが、帰路の(小田越)コースも長い、そして暑い。

みちのく山行2日目も一日晴天。

初日、岩手に着いた時から梅雨が明けた。

明日も晴れそう。


登山メモ:早池峰山(1917m) 岩手県

2023年7月1日土曜日

初めて通過の白馬大池が美しい


 雷鳥坂から小蓮華山手前で大休止。

ボンベで湯を、そして、ティータイム。

コーヒーもパンも美味しい。

初めて通過の白馬大池が美しい。

平成3年8月14日。

2023年6月29日木曜日

富士を絵にするなどと言う事が無理なのだ

 


大菩薩より富士

平成3年2月17日


昨日の富士は美しかった(中央高速道)が、登るにつれて風にのって雲が来て、富士の頭をつつんで澄んだ姿はみられない。

無理に眼で絵にするが?

富士を絵にするなどと言う事がむりなのだ。

登山の一ページとしておく。