板木山(板木城跡)より権現堂山
平成5(1993)年、4月18日 スケッチ
板木山(板木城跡)は魚沼市にある357mの山
大力山から板木城跡へと続く道は、中部北陸自然歩道のひとつ「板木城跡こぶしのみち」のルートとなっていて、その名の通り、春になるとこぶしが咲き誇り登山者を楽しませてくれます
中部北陸自然歩道とは
中部北陸自然歩道は新潟県から滋賀県まで中部北陸8県それぞれの自然や景観、歴史、建造物を楽しみながらトレイルできる環境省が整備した歩道
以下、環境省HPより引用
新潟県山北町から滋賀県大津市までの雄大な山岳景観や日本海景観など多様性に富んだ歩道で、多くの人々が四季を通じて手軽に楽しく歩くことにより、その地域の豊かな自然、歴史や文化に触れ、自然保護に対する意識を高めることを目的として、平成7年度から整備を始め、平成13年春に完成しました。
中部北陸8県(新潟県、群馬県、富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県及び滋賀県)にまたがる旧街道の北国街道、三国街道、中山道をメインルートとした延長4,092kmです。
「板木城跡こぶしのみち」は、中部北陸自然歩道のルートナンバーE-5
佐梨バス停-円福寺-林泉庵-宝泉寺-大力山山頂-板木城跡-西福寺-虫野上口バス停
を巡る11.2kmの区間
春はこぶしだけではなく、可憐な山野草の開花も楽しめます
板木城跡とは
板木城跡は、郭跡、空堀、土塁などが残る中世の城跡で魚沼市の指定文化財(史跡)
魚沼市と南魚沼市の境に位置し、魚沼市では板木城、南魚沼市では雷土城と呼ばれています
築年は不明ですが、上杉長尾氏の当主・長尾政景の家臣・発智長芳が居城していました
天文20(1551)年、上田長尾(政景方)についていた宇佐美満が長尾景虎(のちの上杉謙信)方についたことをきっかけに戦いが起こり、板木城は景虎方から攻撃されます
その後、和睦がなされ、証として景虎の姉(仙洞院)が政景に嫁ぎ、政景の死後、政景と仙洞院の次男・長尾顕景が上杉謙信の養子(上杉景勝)となりました
さらに時を経て
上杉謙信の死後、板木城はもうひとりの景虎軍からの攻撃を受けることに・・・
以下、魚沼市HPより引用
天正6年(1578)、関東から北条氏政の軍勢が攻めてきた際に、上杉景勝方の福王寺重綱が板木城を守り、北条軍を破って撤退させたと伝わっています。
上杉謙信が亡くなった後に起こった「御館の乱」の中の一戦
謙信には実子がいなかったため、上杉景勝と上杉景虎が家督の後継をめぐって争いが起こりました
もうひとりの景虎とは、北条氏康の実子である北条三郎
上杉と北条が同盟を結び、その証として三郎は上杉謙信の養子となり景虎を名乗ります
魚沼市HPにある、小杉城に攻めてきた北条氏政は北条氏康の実子なので景虎とは兄弟
北条氏政は景虎支援のため上田荘に侵攻、景勝方の板木城でも攻防が起こったのです
福王寺重綱とは
北条軍と板木城で対戦した福王寺重綱は上杉謙信の父である長尾為景の家臣景勝勝利後、福王寺重綱ら上田長尾家臣たちは重用され、景勝が米沢藩領主となった後も家臣(五十騎組)として上杉家につかえています
話を戻し・・・
板木城の戦いで福王寺重綱は負傷します
この時、上杉家家臣で上条上杉氏当主・上条政繁の妻が、福王寺重綱の功績を褒め、傷を労る内容の書状を送っています
堀之内町史 資料編/上巻より引用
きやすまり候、やかてやかてゆなともめさるへく候、手ぬひのきぬ一まいまいらせ候、あハれきにあひ候て、めさるへく候、い上、
そのこ、きすいかかに候哉、こころもとなくそんしおり候、たたたたやうしょうひとすちかんよふに候
ゆ=湯ですね
手ぬいのきぬ一まい・・・湯帷子だったりして?
あくまで想像
奥方は傷を癒すために、福王寺重綱に湯治をおすすめしたのかな?




















