2017年2月21日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合祭りの中でも重要とされている「ササラ擦り」のシーンです。

ササラ擦りとは、毘沙門天に豊作を祈願して奉納する儀式。

人馬に担がれている年男が行います。

年男は祭りを主宰し、ササラ擦りなど重要な役目を担うキーマンです。

その年の十二支と同じ年に生まれた人をさして「年男」「年女」と言いますが、
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭でササラ擦りを行う「年男」は、十二支の「年男」という意味ではありません。

家々で正月行事を司る家長としての「年男」の意味に近いと言えます。


浦佐毘沙門堂の堂守「井口家」


浦佐裸押合い祭の「年男」は代々「井口家」当主が務めると決まっています。


井口家は代々毘沙門堂の堂守を務める家で、裸押合い祭りをはじめ、毘沙門天や毘沙門堂にかかわる一切のことを管轄しているそうです。

これは、井口家のご先祖が毘沙門天像と深い繋がりがあるからなのです。



井口家のご先祖が沼に釣りに行った際、沼から毘沙門天の木像を引き上げたと言います。
※木像で丈は7寸か8寸(25cm弱)。



井口家ご先祖は毘沙門天像を家に持ち帰り、石の祠を建てて内鎮守として祀り、のちにその毘沙門天像を普光寺境内に安置したのです。



これとは別に、井口家のご先祖が毘沙門天堂を背負って浦佐にやってきたという伝承も残されています。


2017/03/03追記
井口家のご先祖は、丹波国(京都府)の吉祥院と称する当山派の山伏だったとのこと。



浦佐の毘沙門堂裸押合い祭における「年男」の役割は「神主」に似ているようでもありますが、祭り前の厳しい「行」を考えると、行者に近いと感じます。

年男は裸押合い祭で福物を人々に撒与ますが、毘沙門天の代理として行うため、祭り前には二週間の仮行と一週間の本行を行い心身を清めます。

裸押合い祭当日も、ササラ擦りが行われる時間まで、年男は本堂の一室に設けられる「行場」に籠ります。

裸押合い祭がおこなわれている毘沙門天堂から行場は離れていて、
行場から毘沙門堂へ移るとき、年男たちは不浄なものに接しないように、人馬に担がれて移動するのです。

「祭り」というとイベント的なイメージが浮かびますけれど、
浦佐の裸押合い祭の流れを知ると「本来は神聖な儀式だった」と身が引き締まる思いがしました。


ご本尊「毘沙門天像」について


裸押合祭の際、参拝の対象になる毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏で、木製(ツバキ)で作られていると言われています。

「北越雪譜」天保8年(1837年)にもツバキという記述がありますし、
「浦佐年中行事」宝暦4年(1754年)には
『毘沙門は立像二尺六七寸の椿の白木作 依之一村椿を大切にいたし』との記載があります。

本尊の毘沙門天像は金銅製で、普光寺の別行殿に安置されています。

前立仏の毘沙門天像、金銅製の毘沙門天像ともに、いつ作られたのかわかっていませんが、金銅製の毘沙門天像はインドの仏師・毘首羯磨(びしゅだるま)の作と言われています。

「南魚沼郡志」に『本尊毘沙門天は印度の毘首羯磨の彫刻に係ると言う 長さ二尺三寸 厨子に天正二十(1592)年云々と彫刻あり』という記述があります。

ちなみに、南魚沼市「龍沢寺」にも毘首羯磨が制作した文殊菩薩が安置されています。
龍沢寺に文殊菩薩を奉安したのは、上杉景勝の母・仙桃院(上杉謙信の姉)です。


話しを浦佐の毘沙門堂に戻します。


昭和23年(1948年)2月29日の魚沼新報に梶山賢朗住職(当時の普光寺住職)が書いた「本尊毘沙門天王について」という記事が掲載されました。

その中で本尊毘沙門天像は「金の甲を被り左の手に宝塔をささげ、右の手に如意宝珠をのせ、足下には藍婆、毘藍婆の二鬼を踏んづけている」と描写されています。

平成10年(1998年)に発行された「図説 十日町・小千谷・魚沼の歴史」に、旧浦佐毘沙門天像の本尊と伝えられている毘沙門天像の写真が掲載されていますが、足下に二鬼は踏んづけていません。

こちらの書籍に載っている毘沙門天像は、井口家の内鎮守に祀られていた毘沙門天像なのでしょうか。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前、井口家が祀っている毘沙門天像に戦勝祈願をし、蝦夷平定後に再び訪れ住民の歓迎を受けたとのこと。

それ以後、毎年毘沙門堂を訪れてお祝いをしたのが、裸押合い祭の起源という言い伝えもあります。

大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門天堂を建立して、金銅製の毘沙門天像を安置したという伝承も残っています。

蝦夷平定後、毘沙門堂を建てて、毘首羯磨作の毘沙門天像を本尊として安置した──という流れでしょうか?

「普光寺の明細書」慶応4年(1868年)に『本尊 多聞天 一体 木像 丈二尺三寸一分』と書かれています。
ここに「本尊」「木像」とあるのが気になりますが……。


坂上田村麻呂おお忙しの「大同2年」


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像が複数存在している話を書きましたが、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在しています。


「大同」は806年から810年までの4年間の年号。
平城天皇が即位しましたが、大同4年(809年)に病気のため弟の嵯峨天皇に譲位します。

坂上田村麻呂建立ではないけれど、大同2年に建立されたという謂れがある建物が全国各地に存在しています。著名なところだと清水寺や長谷寺。

その他、山の開山や鉱山の開坑も、大同2年という記述が複数見られます。

東北方面は坂上田村麻呂に関連した伝承、南は空海に関する伝承の大同2年建立という建物がたくさん!

この二人が全国各地を練り歩き寺社や神社をどんどん建てた……とは考えられないので、二人に縁のある人たちが関与したのかもしれません(笑)。

もしくは、大同2年よりのちの世。何らかの意図で、神社仏閣の建立年を大同2年に変更したのかも。


由縁があると「大切にしよう」という思いが強くなります。

土地や建物を後世まで残すために、様々な人物の名前を借りて、誰かが何かを守ろうと考えたのかもしれませんね。

古人が守り続けてくれたからこそ、昔の歴史を調べてワクワクすることができるのですから。

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