2017年2月18日土曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 1本の椿から作られた複数の毘沙門天像





こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、裸押合い祭りが開催される、普光寺境内の毘沙門堂です。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で

栃尾市の「巣守神社」のご神体「毘沙門天」と、浦佐の毘沙門天が同じツバキの木で作られているという伝承を紹介しました。

続けて調べたところ、巣守神社と同様に「浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた」という伝承が残っている毘沙門天像が新潟県内中越地方を中心に点在していることがわかりました。

毘沙門天像の大きさについて


浦佐の毘沙門天像は、木像のものと、金銅製のものがあることをご存知でしょうか?

押合祭のとき、参拝の対象になるのは、木製(ツバキ)の毘沙門天像で、毘沙門天堂内に安置されています。

ツバキでできている毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏です。

金銅製の毘沙門天像が本尊であり、坂上田村麻呂が泰安したといわれています。
本尊は普光寺の別行殿に安置されています。

巣守神社をはじめとした、中越地方の寺社に安置されている同じ木で作られていると言われているのは、浦佐毘沙門天堂内に安置されている、前立仏の毘沙門天像です。

この毘沙門天像の大きさに関する記述が複数の書籍に見られますが、それぞれ大きさの記述が異なります。

・江戸幕府の検地役人・土山藤右衛門が勘定奉行に提出した復命書(出張報告書のようなもの)「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)には、二尺六~七寸(80cm程)。

・会津藩の地誌「新編会津風土記」文化6年(1809年)には、二尺三寸余(70cm程)。

・江戸時代に越後魚沼の雪国の生活を描いた「北越雪譜」天保8年(1837年)では三尺五~六寸(1m10cm弱)。

・大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)と記されています。

しっかり採寸したのか目視によるものか。

それにより、大きさの記述に違いがでると思います。

もしかすると、それぞれの書籍が書かれた時代の毘沙門天が違っていた──
という可能性も否めません。


浦佐毘沙門天像が彫られたツバキの木はどこから来たのか?


鈴木牧之の「北越雪譜」に、浦佐の毘沙門天像は「椿沢という村にあったツバキの大樹を切って造った尊像と言われている」という記述があるように、毘沙門天堂内に安置されている前立仏の毘沙門天像は、椿沢の山にあったツバキの大樹を伐り、それを彫って造ったと伝えられています。

ツバキの大樹があったという椿沢は、現在の見附市椿沢町です。

浦佐には、見附市椿沢の毘沙門天と浦佐の毘沙門天は1本のツバキから彫られたという伝承が残っていますが、見附市椿沢の「椿沢寺」には、毘沙門天像が浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られたという伝承はありません。

ただし、椿沢寺には毘沙門天像のほかに、千手観音像が安置されていて、こちらはツバキの古木で作られていると伝わっています。

椿沢寺の千寿観音像は、和銅二年(709年)に行基が椿の木の霊示を受けて椿の古木で千手観音を彫刻したという伝承と、椿沢を通りかかった旅の僧が、倒れた椿の大木で三体の観音像を刻んだうちの一体である、という二つの伝承があります。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で、

栃堀の巣守神社にある毘沙門天像は、浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られているという伝承が残っていると書きましたが巣守神社にも、見附市椿沢から採取したツバキの木から二体の毘沙門天像を作り、一体を巣守神社もう一体を浦佐のご神体としたという伝承が伝わっています。

また、巣守神社の毘沙門天像を作ったツバキは、守門岳からとってきたという言い伝えもあります。

浦佐は見附椿沢の毘沙門天像と同じツバキで作られていると言い、
栃堀は浦佐と同じツバキで作られていると言う。

「どっちが本当なの!?」と思いますよね。
けれど「同じツバキで作られている」と伝承しているのは、見附と栃堀だけではないのです。


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像は何体あるの!?


柏崎・常福寺では昭和30年代の終わり頃まで、浦佐毘沙門堂と同じように3月3日に裸押合い祭りが開催されていました。

常福寺にも毘沙門天像があり、常福寺を建立した伝教大師が椿の古木で毘沙門天を三体作り、
上を高原田、下を浦佐、中を常福寺に安置したと言われています。

これ以外にも、浦佐の毘沙門天と同じツバキの木で作られているとされる伝承が残されている毘沙門天像が

・柏崎の常福寺、普広寺
・小千谷の多聞神社
・魚沼の守門村にある内鎮守、宝泉寺
・南魚沼の七尊観音堂

など、複数の神社仏閣に安置されています。


1本のツバキで何体もの毘沙門天像が作られたのか?


浦佐毘沙門堂内に安置されている前立仏の大きさは、著書により大きさがさまざまであるとお伝えしましたが、一番近世の大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」の二尺三寸(70cm程)で考えてみも、1本のツバキから1m弱の毘沙門天像が何体も制作できたとは考えられません。

椿は通常5~6mほどの高さになる常緑性の高木です。

では、大樹と言われている椿はどのくらいの大きさなのでしょう?

参考として、日本にある椿の大樹の大きさを記述させていただきます。

・京都府与謝野町「滝のツバキ」樹齢1200年を越える。樹高は9.7m、幹周約3.3m。

・千葉県成田市「伊能のツバキ」樹高6m、幹周3.5m。

・東京都大島町「小清水の大木」樹齢300年。樹高10m、幹周1.6m。

大樹、古木となりますと、樹勢が衰えて幹の空洞化が進んでいる場合もあります。
どんなに大きなツバキの木だとしても、枝分かれ部分もありますから、何体もの毘沙門天像を彫り出すのは難しいと思います。

各地の毘沙門天像は浦佐の毘沙門天像である可能性(推測)


もし、浦佐の毘沙門のツバキの毘沙門天像が複数存在していた、としたらどうでしょう。

そのように考える理由が、昭和6年に起った毘沙門堂の火災についての記事にあります。

浦佐の毘沙門堂は、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したと言われています。

どのような建物であったのかわかっていませんが、鎌倉時代には今の毘沙門堂と普光寺、大伽藍の輪郭が形成されていたようです。

「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)にも、江戸時代中頃には毘沙門堂は7間4面の荘重な御堂であったと記されています。

しかし、この御堂は、残念ながら昭和6年(1931年)の火災で焼失してしまいました。

今の毘沙門堂は、伊藤忠太(東京帝都大学名誉教授)設計により、昭和12年(1937年)に完成したものです。

昭和6年の火災で毘沙門堂は焼失。その時の記録として――。

・木像毘沙門天一躯
・吉祥天・善膩師童子の両脇侍
・八大夜叉八躯
・鬼子母神、賓頭盧尊各一躯

その他、仏具類を焼亡したとあります【新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗より】

秘仏である本尊は火災を逃れましたが、木像の毘沙門天「一躯」が焼亡しています。

火災の後、木像の毘沙門天像が作られたという記述が見受けられないので、現在毘沙門堂に安置されている前立仏の毘沙門天像は、昭和6年の火災を逃れた毘沙門天像ということになると思うのですが……。

昭和6年の火災で木像毘沙門天一躯が消失したということは、現存している前立仏の毘沙門天像と消失した木像毘沙門天像、少なくとも毘沙門天像は2躯あったということですよね。

先に紹介した過去の書籍は、それぞれ毘沙門天像の大きさが異なります。

・「浦佐村年中行事」二尺六~七寸(80cm程)。
・「新編会津風土記」二尺三寸余(70cm程)。
・「北越雪譜」三尺五~六寸(1m10cm弱)。
・「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)。

それぞれの書籍の著者が見た毘沙門天像が全て異なっていたという可能性もありますよね?

出雲崎町「多聞寺」の本堂に2体の毘沙門天像が安置されていますが、そのうちの1体が、浦佐から招来された毘沙門天像として伝わっています。

多聞寺参道前にある石碑には、多聞寺が浦佐毘沙門天の御分体を安置し、出張所を作って活動していたという刻字がされています。

残念ながら、多聞寺の毘沙門天像は秘仏とされていて普段は見ることができませんので、
どのような立像なのかわかりませんが、複数の毘沙門天像が作られ、出雲崎の多聞寺と同じような形で、浦佐から各地に毘沙門天像が送られていたとしたらどうでしょう?


ツバキと上杉謙信と毘沙門天でブランディング


ツバキは古来より「神が宿る木」として、現在でも「霊木」とされています。

浦佐では毘沙門天像がツバキから作られているというので、ツバキを薪にすると祟りがあると言われ、ツバキの木を植える人がいないと「北越雪譜」に書かれています。

そして、浦佐の毘沙門天像をつくったツバキと同一のツバキからつくられている毘沙門天像があると言われている見附の椿沢寺は、上杉謙信の祈願所として庇護を受けていました。

謙信は、行基により彫られたという千手観音を信仰し、戦勝祈願に訪れたそうです。

そして結願の礼として、椿沢寺に仏具や枕屏風、茶がめなどを寄進しています。

上杉謙信は「自分は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じ、毘沙門天を深く信仰していました。

浦佐の毘沙門堂も上杉謙信との関連があり、天正3年(1575年)に謙信は北条氏政壊滅祈願のため、代理人を浦佐の毘沙門堂に参籠させています。

浦佐の毘沙門天は、古くから越後有数の霊験神として崇められ、武門階級は武の神として、農民は農業の神、商人は養蚕の神として信仰していました。

霊木のツバキ、戦国時代最強の武将と言われた上杉謙信、その謙信が崇拝した毘沙門天。
三拍子揃った浦佐の毘沙門天は神格化されていたはずです。

その毘沙門天と「同じ木」で作られているとなれば、参拝する人も増えることでしょう。
また、格式や権威を得ることができたはずです。

浦佐に置かれていた毘沙門天像が、出雲崎町「多聞寺」のように、出張して設置されることになったのか。

はたまた、同じ椿の木で作られたのか。

同じ木で作られている話になったのか。

真相はわかりませんが、古くから各地で、毘沙門天像のブランディングが行われていたのかもしれませんね。