2018年6月10日日曜日

ねぶたの由来は「眠り流し」ではない? ねぶた祭イラスト

ねぶた祭
今日のイラストは青森ねぶた祭の「ねぶた」です。

ねぶたというのは、練り物の「灯籠」(山車)のことですが、青森のねぶた祭の由来については「青森ねぶた祭オフィシャルサイト」の「知る」「ねぶたの由来」に次のように書かれています。

青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。

七夕祭では、7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流していたそうです。

それが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れているとのこと。

ねぶたは、禊ぎ払えの祭なのですね。

「ねぶた(ねぷた・ねふた)」というのは

・東北地方や信越地方⇒「ネンブリ流し」
・関東地方⇒「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」

などの方言で「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」になまって変化したと言います。


●眠り流しとは?



「眠り流し」というのは、睡魔を払う行事で、七夕のとき水浴をしたり形代 (かたしろ) などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりするものです。

秋田県横手市では、8月6日に木と稲わらで作った小舟が町内を練り歩き、崎川原にくり流す「ねむり流し」という祭が行われています。

睡魔を払うということは、庚申信仰にも関係しているのかもしれません。

庚申の日、人が眠った後、体内にいる虫が閻魔大王に報告に行くのを止めるという言い伝えです。

庚申講について⇒米山講について 米山の石仏イラスト


●柳田国男が紹介する、ねぶたの由来



ねぶた祭の由来は「眠り流し」にあるとのことですが、それが正解というわけではなく、ねぶたの由来、言葉の意味は別にあるとも言われています。

明治時代、柳田国男がその著書の中で、各地の「眠り流し」を紹介し、その中に青森「ねぶた祭」も描かれていたことから、青森のねぶた祭は「眠り流し」の祭りであるという説が広まりました。

ただし、柳田は青森の「ねぶた」が「眠り流し」由来ではないとする説を唱える人もいることも記しています。

青森県のネブタの研究者としては、棟方悌二氏が最も著名であった。
この人の意見は日本風俗志にも出ていて、十分に穏健なるものであったが、なおこの一語の意味を明らかにし得なかったために、今に至るまで地方の通説を、覆すことに成功していない。
最も人望の多い通説は、田村将軍がこのネブタを催して、山に隠れている蝦夷の賊を誘い出し、退治をしたのに始まるというもの、次には同じ策略を以て引捉えた夷民を選別して凶猛なる者は対岸へ放流し、忠順なる者のみを止住せしめた。


棟方悌二氏は弘前中学校で教鞭をとられた方で、郷土史を研究され、陸奥史談会を創設。著書に「弘前教育史(藩政時代)」などがあります。

田村将軍というのは、坂上田村麻呂 のことですが、蝦夷討伐の任務の際、敵を油断させるために、笛太鼓、灯籠ではやしたてたことが、ねぶた祭の由来であるという説です。

余談ですが、蝦夷、阿弖流為(あてるい)は、弥彦神社(にゆかりがありそうな)、魚沼神社の御祭神である阿彦と通じるものがあります。
祭り(祀る)ことで、慰霊。でしょうかね。

話を、柳田国男の「眠り流し」に戻しますね。

一方にネブタは蕃語(ばんご)ならんという説があって、これがまた近頃まで続いていた。

蕃語(ばんご)というのは、えびす。また異国の言葉とのことで、えびすは蝦夷(えみし)となります。


●柳田国男の言い分



柳田は青森の「ねぶた」が「眠り流し」由来ではないとする説について記したのち、次のようなことを言っています。

これらの諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない。
私はただ現在のいわゆる郷土研究が、もしわが郷土を視て他を省みなかったならば、結果は概ねかくの如くなるであろうということを、例示するだけの小事業を以て、満足しようとしているのである。

いろいろな説があるけれど、どれが正しいのか決めるのは、私の役割ではない。
でも、他の(日本各地)の「眠り流し」の事例をみてごらん。
青森の「ねぶた」も他地域の「眠り流し」と同じようだよ。
それを知らずに郷土の研究だけをして、持論を唱えているんじゃだめだよ……
そんな風に、戸皮肉っぽく書いています。

けれど、郷土の歴史は郷土にいなければわからないことがあります。

多きものに同調して、諸々が上書きされるということはよくあること。

以前、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在していると書きました。⇒浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係

蝦夷征伐の際、坂上田村麻呂が立ち寄った各地で寺社が同じ年に建立されていますが、同年に建てられるというのも奇妙な話です。

民俗学の創始者である柳田国男が「ねぶた=眠り流し」案を呈しているわけですから、眠り流し説が主となるのも無理もないでしょう。

とはいえ、柳田説も「諸説」のうちの一つであり「諸説の優劣を決するのは、少なくとも私の任務ではない」と彼自身が言うように「ねぶた=眠り流し」が正しいかどうかは決められないわけです。

ねぶたの由来。もう少し追っていきたいと思います。

2018年6月8日金曜日

一村尾太々神楽面を作った、南魚沼の名工「北川岸次」とは?



一村尾 太々神楽


今日のイラストは、南魚沼市一村尾地区の太々神楽。

江戸時代より伝承されている神楽で、毎年9月中旬に開催される「十五夜祭」で奉納されます。


明治26年(1893年)からは、32面の神楽面を使った26座の神楽を奉納。

32面のうち、27面は日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次が手がけたものです。



南魚沼の工匠「北川岸次」とは?




北川岸次は船ヶ沢(当時)出身の工匠で、浦佐の毘沙門堂裏手に銅像が建っているので、ご存知の方も多いことでしょう。

北川岸次銅像(浦佐毘沙門堂)

台座脇には以下のような説明が記されています。

北川岸次は天保七年(1836年)船ケ沢の小杉に生れ、安政元年(1854年)浦佐北川家に養子に入る。
幼少より手先器用にして工匠となり、毘沙門堂等に数々の偉作を残す。
明治五年(1872年)八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す。
その模型を携え特許出願のため上京した折政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる。
また、我が国初の人体解剖模型を完成。
さらに石膏蝋細工等の技術により医学研究分野に貢献す。
明治十五年(1882年)八月三日病死す。
享年四十七才。
昭和三年十一月十日(1928年)生前の功により贈従五位を受く。


北川岸次銅像説明文

ザックリすぎて「ふ~ん」という感じで流し読みしてしまうのですが、探っていくと北川岸次が素晴らしい工匠であったことがわかりました。

例によって、まだ調べ途中ですが……。

銅像に記されている説明文に沿って、北川岸次の功績を詳しく説明していきますね。



手先器用にして工匠となり偉作を残す




船ヶ沢新田に生れた北川岸次は幼名「小萬治」のちに「清賢」と名前をあらためています。

子どもの頃から手先が器用で、安政元年(1854年)19才のときに北川家の養子となり、近考斉岸次と名乗るようになりました。

岸次が器用であったことを物語るのが、「清賢」を名乗っていたころに制作した、神社の向拝や欄間、仏壇などの作品。

荒山十二神社の向拝裏に、清賢の署名があるそうです。

その他、穴地十二社の拝殿の大戸(上には石川雲蝶の彫刻あり)も岸次の作品です。

そして、北川家に養子に入った後の明治元年(1868年)、一村尾の若宮八幡宮の神楽面27面を作成しました。



八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す




一村尾の神楽面を作成したのと同じ頃、北川岸次は浦佐の天文数学者・柳與三次に学びながら、渾天儀(こんてんぎ)を作成します。

渾天儀(こんてんぎ)というのは、天球をかたどった模型で、古く中国で天体の位置測定に用いられた器械です。

渾天儀(国立科学館所蔵)

また、この頃、岸次は八色原の開墾に目を向けます。

八色原は以前から開田が試みられていた地域でしたが、水無川の氾濫で幾度となく土砂が流失し起伏が多いため開墾できずにいました。


明治5年7月のこと。

岸次は八色原を開墾んするために、渾天儀をもとに動力水車の開発に取り組みます。

そして、政府に補助金の申請を行うため、開墾計画の企画書と動力水車の模型を携え上京。

このとき、岸次の技能に注目した政府は、岸次に活動の場を東京に移すように勧めます。岸次は拠点を東京に移し、宮内省や工部省などで西洋建築や家具の製作を行うようになります。

岸次が申請した八色原の開墾のための動力水車はどうなったのでしょう?

八色原の開拓については、次のような記述があります。

八色原の開拓は戦前から何度も取り組まれたけれど成功することはなく、昭和53年にパイプ灌漑が完成。その後、用水路や耕作道などが整備された。

昭和という年号からもわかるように、岸次の動力水車は実現することはなかったようです。

岸次の才能を買い、政府が岸次を東京に留めたのか。
開発のための助成金を支払うことを躊躇し岸次を東京に留めたのか。

前原一誠の信濃川分水計画が明治政府に受け入れられなかったことが頭をよぎります。

平成の八色原



政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる




動力水車の模型を持って東京に出向いた岸次は、その才能を認められ、西洋建築や家具の製作を行うようになります。

実際、北川岸次が東京でどのような物を製作していたのか? これについては、岸次の息子である「北川千次」が執筆した文章に次のような記述があります。

陸軍士官学校は「エラカ」の彫刻を都下の彫刻者に募るも、未だあらざれば能く刀を下す能はざるを以てなりと、君(岸次)之れに鷹じて曰く、我が技、稚拙なると雖(いえど)も、聊(いささ)か期する所あり、試みに之に當(あた)らんかと、細念深考遂に之を制作し、士官学校の用ゆる所となれり。

参考:「東京模範商工品録」明治40年6月出版 東京の工業製品カタログ

東京模範商工品録表紙

岸次は陸軍士官学校で「エラカ」の彫刻を手がけ、同校のイスやテーブルなども制作したと千次は書いています。

ちなみに、この「エラカ」を調べてみたのですが、なんのことかわかりませんでした。人の名前なのか、技工なのか、場所なのか物なのか……。



我が国初の人体解剖模型を完成




岸次が陸軍士官学校での仕事に励んでいた頃、開成学校が理化学に関する模型の制作を懸賞をかけて募ったと千次は同文章に書いています。

千次は岸次が「洋式彫刻を士官学校の「エラカ」に倣ふて能く模擬し得たり」「模擬難模型難を叫ぶは、自ら侮るものにして面して外人に對(たい)し我が工藝界の無能を告白するもの」と一念発起して、人体模型の作製を引き受けたと説明しています。

人体模型制作で岸次は苦労を重ねたようで「苦心惨憺、遂に木彫の型を作り、之に漆型を施して以て模造するの制作法を案出せり」と制作の模様を千次は綴ります。

そして、ついに人体模型が完成。

「其の創意の結果は好績にして、彼の輸入品と相對する」

「其の功績や甚だ大、我が学術界、工藝界の歴史上に於て特筆大書に値ひす」

千次は父・北川岸次の功績を絶賛。

実際、岸次の人体解剖模型は、内蔵や血管、骨格などが精巧に再現されており、それぞれが取り外しができ、身体の仕組みを知るのに適した模型でした。

人体解剖模型は、千次の会社で制作され、医学の発展に大きく貢献したと言います。



北川岸次が手がけた太々神楽面




岸次が作成した人体模型は大正12年(1923年)に浦佐尋常小学校に寄付
され、現在は八色の森公園内の「むかしや」に展示されています。



「むかしや」さんに行くと、奥の方にリアルな人体模型が置かれていて、小学校の理科室で人体模型を初めて見てびびったことを思い出すのは、私だけではないはず……きっと。



先にご紹介したように工匠・北川岸次が手がけた作品は、南魚沼市の各地に点在しておりますので、岸次巡りができますね。

浦佐の毘沙門堂で岸次の銅像を見て、八色の森公園の「むかしや」さんで人体模型を見てびっくり!