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2026年2月12日木曜日

京の冬の旅 西本願寺飛雲閣に行って本願寺伝道院も見る 

 

冬の京都
60回記念 京の冬の旅 2026年1月9日から3月18日(水)まで
非公開文化財の特別公開が開催されています

上記フライヤー(表裏)は、開催場所の案内とスタンプラリーの案内

拝観料の支払時にスタンプを押してもらい、スタンプを3カ所ぶん集めると、フライヤーに記載されているお店で、お菓子や飲み物をいただく「ちょっと一服」ができたり、お土産などのプレゼントと交換できたりします

3カ所集めたスタンプの用紙は、宿泊券や伝統工芸品が当たる「おおきにキャンペーン」に応募できる応募券となります

これからの京都は、梅の香漂う参拝となるのでしょうね

私は・・・北陸地方は大雪が降った1月(京都は晴天でしたが寒かった)西本願寺 飛雲閣(外観)を見学しました


通常非公開ですが、「京の冬の旅」では外観見学ができます
池の水面に映る三層のこけら葺き屋根の建物が美しかったです

飛雲閣は、秀吉が経営した聚楽第中に建てられ、その後、当地に移建されたと伝わるが・・・詳らかではない、と文化庁の文化遺産データベースに書かれています

二層目の板戸には歌人の絵が描かれています
飛雲閣の二層目は「歌仙の間」といわれ、三十六歌仙の歌人の絵が板戸の内外に描かれているそうです

雪の時期に訪れたので、一層目の白く美しい障子が気になり・・・雨風に強い障子なのかな? とかついつい余計なことを考えてしまいました

飛雲閣から庭園「滴翠園」を巡ると、梅の花がすこーし咲いていて、梅香がすこーししました


ところで、飛雲閣の紹介文には
飛雲閣は金閣と銀閣とあわせて「京の三名閣(三閣)」に数えられる名建築

と書かれていました・・・洛陽三閣ともいわれているそうです

洛陽三閣に大徳寺の呑湖閣をあわせて、京の四閣

京の四閣に東福寺常楽庵 開山堂・伝衣閣をあわせて、京の五閣というそうです

京の五閣に、第49回京の夏の旅で見学した祇園閣を・・・

は違うようです・・・

でも、伊東忠太ファンとしては、お西さんまで行ったら見学したい所があるのです

西本願寺御影堂門から御影堂門の向こうに、伊東忠太が設計した本願寺殿堂院の屋根が見えています

明治28(1895)年に真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、伊藤忠太設計で建てられた本願寺伝道院

現在は僧侶の研修の道として使用されているそうです

通常内部は非公開ですが、建物の外観(建物を囲むように並んでいる石像たちも)は見ることができます

入り口にある狛犬のような石像



建物を囲む石像たち・・・

こそっと、伊藤忠太原案の別の石像写真も入れています(わかりますか?)


以上、本願寺飛雲閣と本願寺伝道院の外観を見た、というお話でした

2025年10月4日土曜日

米山より日本海を望む

 


米山より日本海を望む

年不明、10月1日スケッチ

米山は新潟県上越市と柏崎市の境にある、標高992.5mの山。

山の名前の由来は、最澄の弟子が海を渡る強欲な船主から米俵を(米山に)飛ばしたという伝説から。

過去記事「伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その1)まずは米山から」

で、明治から昭和の建築家で古社寺保存法にも携わった伊東忠太が古社寺保存調査で新潟県を訪れた際、米山のスケッチがフィールドノートに残っていると紹介しました。

今は道路や橋梁があるので、忠太が旅した頃とでは米山付近の風景は大きく変わっていますが、米山そのものの姿は忠太が見たときと変わっていない、のでしょうかね。

2024年12月16日月曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その3)

大倉喜八郎の京都別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」。楼閣が今の祇園祭山鉾の形に落ち着くまでには、設計者・伊東忠太と喜八郎の対話が何度かあったようです。


奈良国立博物館 収蔵
十二神将立像

今日の写真は、奈良国立博物館収蔵の十二神将立像です。
なぜ、この写真か? というのは文内で、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」の資料を活用させていただいたから。


十二神将像
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/858-0?locale=ja)

6神写真撮影をするのを忘れてしまっていたので6神の写真をColBaseを利用して掲載。
このような感じで、今回の文章内にも浮世絵画像を掲載しました。

浮世絵に見る、風に吹かれて漏斗状になる和傘


大倉喜八郎が「漏斗状になった傘」を見たのは、上京する嘉永7(1854)年前の郷里・新発田にいた頃という説があります。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」では、上記の忠太とのやりとりの中で喜八郎が『子どものとき、雨風の強い日に使いに出されて、土手を歩いていると傘がおちょこになった』と話す描写があります。また、昭和2(1927)年「財団法人大倉集古館、祇園閣、京都大倉別邸建築記念写真帖」大倉土木株式会社には、喜八郎が子どもの頃に持っている傘が突風に吹かれて破れて逆立ちという記述があるようです(同書籍未確認)。

喜八郎幼少の頃、となると洋傘が流行る前ですので「和傘」が逆さになったのを見たと思うのですが、ここで話が逸れますが「和傘って漏斗状になるの?」という疑問が芽生えたので浮世絵を探してみました。

浮世絵を探すとき、とても便利だったのが、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」。
国立文化財機構の4つの国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)と2つの研究所(東京文化財研究所、奈良文化財研究所)の収蔵品や、皇居三の丸尚蔵館の収蔵品を検索できる横断システム。

画像を活用できるので、とってもありがたい! 早速活用させていただきました。

ColBaseの活用方法、画像利用についてはこちらのブログ記事に詳しく掲載せれています。
参考:独立行政法人国立文化財機構 文化財活用センター ブログ「ColBaseを活用しよう!ColBaseの画像利用について」

歌川国芳「百人一首之内・文屋康秀」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-5356?locale=ja)



「和傘が漏斗状になるのか?」という疑問へのアンサー浮世絵。見事に反転しています、風に吹かれて漏斗状になっていますね。傘を地面に押しつけて飛ばされないようにしているので、かなりの強風、突風だったのでしょう。

ところで、雨の日に傘をさしていて、風が強くなったら傘をすぼめる――というのが、傘が反転しない秘訣。

喜多川歌麿「江戸八景・衣紋坂乃夜の雨」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4282?locale=ja)


籠の左側にいる男性、傘をすぼめて走っています。

大倉喜八郎は幼名を鶴吉と呼ばれていたのですが鶴吉少年は「幼にして頴敏聰悟(頴悟聰敏の誤字かな?)嶄然として頭角を出して居たことは、當時人皆翁を呼んで小太閤と稱して居たことでも判る。是れ翁の面貌が豊太閤に似て居ると云ふのではなく、大膽にして小心、敏捷にして機智に富んで居たから」と書籍「大倉鶴彦翁」鶴友會発行に記されていました。

そんな鶴吉少年ですから、大切な傘を壊さないように注意してさしていたと思います。それでも、突然に突風が吹いて傘が裏返ってしまった――としたら強く印象に残りますね。

忠太が思い描いたのは和傘か洋傘か?


喜八郎の「傘が漏斗状になった建物」を造りたいという空前絶後の計画を諦めてもらうために忠太が珍妙な草案を造って見せたという話もありますが、忠太が喜八郎の依頼に本気で向き合って日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】に見る「漏斗状の傘」をモチーフにした數案を作ったかもしれません。

喜八郎にとっての「傘」は鶴吉少年時代に持っていた和傘で、忠太にとって「傘」といえば洋傘を思い浮かべたとしたら。

「傘」と聞いてイメージするものが喜八郎と忠太では違っていたのではないか、という推測。

伊東忠太の父親は長崎で医学を学び軍医となった人物で、伊東家は代々医を業としていて祖父も長崎でシーボルトに医学や蘭学を学んでいます。

洋傘は明治以前にも日本に入ってきていて、江戸時代後期文化元(1804)年の長崎で唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られ、これが現在、書物の中に見られる洋傘として特定できる最古の記録とのこと。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」より抜粋

忠太の祖父や父が洋傘を持っていたとしたら、傘といえば洋傘というイメージが強くなるかもしれません。

それから、喜八郎の向島別邸に呼ばれて「漏斗状になった傘の建物」を建てたいという話を聞いた時期について。「趣味の鶴彦翁」で忠太は『或る時』と書いていますが、喜八郎と忠太の交流は大正元(1912)年に喜八郎の向島別邸を造る際に忠太が相談を受けたころからスタートしています。そして祇園閣の工事着工は大正15(1926)年なので、「漏斗状になった傘の建物」の依頼を受けた「或る時」は大正時代と思われます。

大正といえばモダンガールがお洒落のアイテムとして洋傘を持ち歩いたとき。時代的にも「傘」というと「洋傘」というイメージが忠太の頭に浮かんだのかもしれません。

そうだとしても、依頼の思いやイメージを推測するでしょうし、それを重視するでしょうから、喜八郎が「和傘」をイメージして依頼したとわかっていながら、空前絶後の計画を諦めてもらうために珍妙な案をつくるためにあえて「洋傘」で描いた…という作戦だったのかもしれません。

まとめ


話をしていてお互い「そうそう」と言ってわかったつもりになっていても、実は違うものを頭の中では思い描いているということは往々にしてあることです。

実際は相反していてそれぞれ平行で進んでいるけれど、会話は交わっていて成り立っているように感じられる。後になって「言っていることと違うじゃん!」となる。違いに気づかず人に伝わると、まったく違う内容になってしまうなど。

忠太が絵に描いて見せたことで「漏斗状になった傘」がイメージとは違って「これはいかん」と喜八郎は言うわけですが、だからこそ次に『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』といって依頼するとき『寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明』したのでしょう。

忠太は山鉾形も実は反対だったけれど、写真を見せて詳細説明されたことで、断れなくなった…なんて記述はありません。妄想です。


あ。

「祇園閣が山鉾の形になった理由」についてですが。

昭和4(1929)年発行の大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太が寄せた「趣味の鶴彦翁」には祇園閣を建てるまでの経緯(喜八郎からの依頼、山鉾の形になるまで、二人のやりとり)が忠太視点で書かれています。

『祇園の鉾の形をそのまゝ建築化したものを造って貰ひ度い』と喜八郎から忠太は頼まれますが、その目的を喜八郎は『私の記念事業の一つとして、京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高楼を作り、京都名所の一つにするのだ』と語ったそうです。

その完成を見ることなく、大倉喜八郎は永眠してしまいます。平成9(1997)年に祇園閣は登録有形文化財(建造物)となりましたが、何の建物か知らないでねねの道を歩いていると「何の建物だろう?」となるかもしれませんね。鶴彦翁と同じように、祇園閣も評価がわかれているようですが、もしやそれも鶴彦翁は狙ってのことだったのかな?

2024年12月15日日曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その2)

京都にある祇園閣は大倉喜八郎の依頼を受けて、伊東忠太が設計した建物です。忠太に設計を依頼したとき喜八郎は「漏斗状になった傘の形」をした建物をリクエストしました。

蔵春閣ラッピングバス(左)新潟空港ロビー(左)

写真右は新潟空港ロビーにある「風味爽快ニシテ」(新潟県出身の醸造技師、中川清兵衛と札幌麦酒会社を設立した大倉喜八郎)の広告。

写真左は大倉喜八郎の向島別邸にあった「蔵春閣」が、喜八郎の生まれ故郷である新潟県新発田市の東公園内に移築され令和5(2023)年から一般公開されることになったときに走っていたラッピングバス(と雪国ならではの縦型信号機)。

蔵春閣は東京向島にある大倉喜八郎別邸に明治45【大正元】(1912)年に接客を目的として建てられた建物。この向島別邸を増築する際、喜八郎は明治建築界の巨匠である片山東熊や妻木頼黄や、後に大倉集古館や祇園閣を依頼することになる伊東忠太を呼んで相談しながら建築案を練りました。

参考:「建築工藝叢誌」第1巻第6冊(1912年7月刊 建築工芸協会)『蔵春閣建築瑣談』大倉喜八郎著

蔵春閣 外観

その後、忠太は別家で向島別邸に呼ばれ、喜八郎から空前絶後(忠太談)の注文(建築依頼)をされます。

喜八郎亡き後に発行された追悼文集に、そのときの思い出を忠太が綴っているので紹介します。

大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」について


大倉喜八郎は明治から大正にかけて建設や製鉄、貿易、繊維、食品など様々な事業や企業を興し、大倉財閥を築いた実業家です。福祉や教育、文化事業にも熱心に取り組み、明治維新後の国内発展にかかせなかった人物だと思うのですが……明治維新の頃、鉄砲店をひらいたことや軍に食糧などを供給したことから武器の商人と批判されることも多く評価が大きくわかれています。

喜八郎が昭和3(1928)年に亡くなった後、翌年の昭和4(1929)年に追悼文集「鶴翁餘影」が発行されました。

渋沢栄一や後藤新平、犬養毅(と連ねると上記の諱が「ほらね」となりそうですが)幸田露伴や尾上梅幸、高村光雲など錚々たるメンバーが喜八郎との思い出話を綴っています。

様々な人と喜八郎のやりとりや、その人たちの目線で見えた喜八郎の姿、あまり知られていない喜八郎の人柄、世間で噂となっていることが事実とは違っていることなど、当時の様子とともに描かれていて、大倉喜八郎という人物を間接的にですが知ることができる本だと思います。

じっくり時間をかけて読みたかったのですが、図書館では古書貴重本という取扱いで館内のみ閲覧可能。
国立国会図書館のデジタルコレクションになっているので登録すれば個人送信で閲覧可能ですし、図書館送信サービスに対応している図書館であれば館内での閲覧可能ができます。もちろん国立国会図書館以外で「鶴翁餘影」を所蔵している図書館はあります。気になる方は、検索してみてくださいね。

伊東忠太が寄せた追悼文「趣味の鶴彦翁」


大倉喜八郎は平安神宮や明治神宮、築地本願寺や湯島聖堂をはじめ、明治から昭和にかけて様々な建築設計を行った伊東忠太とも交流を持っていて「大倉集古館」「祇園閣」「眞葛荘」(現存する建築物)の設計を依頼しています。

先に紹介した大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太も「趣味の鶴彦翁」というタイトルで追悼文を寄せています。そこには、京都に現存している祇園祭の山鉾をかたどった望楼「祇園閣」【平成9(1997)年登録有形文化財(建造物)】を建てるまでの喜八郎とのやりとりが記されています。

ちなみに、鶴彦翁というのは大倉喜八郎の幼名が鶴吉で、趣味の狂歌で号を「鶴彦」としていたことからきていて、祇園閣の屋根上にある銅棹の頂には羽を広げた鶴が置かれ、正面入口の扉内側にも鶴があります。

祇園閣 大雲院側から望む

「趣味の鶴彦翁」によると、忠太は喜八郎から電話で呼び出されて向島別墅に行くと――
『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』と依頼を受けた。そこで傘が逆さになった建物を描いて喜八郎に見せたが「これはいかん」と言って諦められた。時間を経て再び呼ばれると次は『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』と依頼された。

そこで今の祇園閣のような形を描いてOKをもらい、計画が動き出したという経緯が書かれています。

「これはいかん」と大倉喜八郎に言わしめた「試しの數案」


日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の中にある伊東忠太が描いた漏斗状の傘の絵は洋傘に見えます。ただ、喜八郎が依頼をするときに洋傘と語っていたのかはわかりません。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」大倉雄二著には『彼(喜八郎)が伊東に頼んだのは、おちょこになった番傘を高い屋根に載せた塔であった』と書かれています。

おちょこというのは、傘が反転した様子が御猪口に似ていることから、漏斗状になった傘のことを「おちょこ」になると表現します(関西ではまったけなど、いろいろ呼び名があるようです)。

そして先ほどの文章に続いて、喜八郎に「おちょこになった番傘の建物」を諦めさせるため忠太は『珍妙な石膏模型を造って彼(喜八郎)に見せた。たぶんできるだけ格好の悪い』見ただけでおかしくなりそうなものを造って見せたと書かれています。それで喜八郎が「これはいかん」と言って諦めたと。

追悼文集「鶴翁餘影」「趣味の鶴彦翁」の中で忠太は『兎に角試しに數案を作って翁に示した』と書いていますが「おかしなものを造って見せた」とは書いていません。そこはあえて触れなかったのでしょうかね?

ただもし【野帳40】にある漏斗状の傘の建物の案が通り京都東山エリアにできていたら――今の祇園閣も斬新な建物ですから――ねぇ。

2024年12月12日木曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その1)


大倉喜八郎の生誕90歳を記念して建設された京都にある祇園閣は祇園祭の山鉾の形をしていますが、当初は山鉾ではなく違う形で建設する予定でした。

設計者の伊東忠太に「空前絶後」と言わしめた、喜八郎が依頼した形は『漏斗状になった傘』から祇園祭の山鉾の形になった理由を探ってみました。

俎倉山から飯豊連峰を望む

今日のイラストは、新潟県新発田市にある標高856mの俎倉山から飯豊連峰を望むです。新発田市は今日の話に出てくる、京都東山エリアにたたずむ「祇園閣」を建てた実業家、大倉喜八郎の郷里。

喜八郎がリクエストした「漏斗状になった傘の形」の建物


京都にある祇園閣は大倉喜八郎が伊東忠太に設計を依頼して建てた楼閣で、別邸「眞葛荘」と同時期の昭和2(1924)年に完成しました。

祇園閣の設計を忠太に依頼したとき喜八郎は『漏斗状になった傘の形』をした建物を建てて欲しいと要望したそうです。

これを受けて忠太は傘が逆さになった建物のスケッチを描き大倉喜八郎に見せたのですが採用とならず、その後改めて喜八郎から『祇園祭の山鉾の形』の建物というリクエストを受け、山鉾をモチーフにした建物を描いたというエピソードがあります。

大倉喜八郎が『漏斗状になった傘の形』の建物を伊東忠太にリクエストしたのは理由がありました。

当時のことを忠太は喜八郎の追悼文集「鶴翁餘影」で次のように書いています。

大倉翁から電話で呼び出され向島の別邸に行くと、翁は握手をしたのち次のような空前絶後の注文を提出した。

『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』

その依頼内容に驚きつつ忠太は「翁の性質として一旦言ひ出されたら決して無条件で取り消されぬのであるから」「無理とはおもひながら」案を練って示したが(野帳40にある祇園閣エスキースは洋傘を逆さにした面白い建物です)さすがの喜八郎も「これはいかん」と言って諦めたそうです。

その後、時日を経て忠太は再び向島別邸に呼ばれ喜八郎から

『京都の眞葛ケ原に小さい別荘を建てようと思ふ。その敷地内に祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』

と言われた。
そのとき、喜八郎は「寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明された」と忠太は書いています。そして「これならば物になるという自信が湧いたので即座に快諾した」と続けています。

参考:『鶴翁餘影』昭和4(1929)年発行

山鉾の形の祇園閣のエスキースも、洋傘が逆さになった形の祇園閣のエスキースも日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の1ページに並ぶような形で掲載されていますが、同資料【古写真 国内建築写真など】の中に祇園祭りの山鉾写真も掲載されています。

2024年7月12日 撮影
祇園祭山鉾惹き始め(前祭)菊水鉾

『鶴翁餘影』で忠太が書いていた「喜八郎が鉾の形式を説明するときに見せた寫眞(写真)」とデジタルアーカイブス【古写真 国内建築写真など】に掲載されている写真が同じ物だとしたら、喜八郎の持っていた写真だとしたら――なんていう想像をしてしまいました。

漏斗状になったのは和傘か洋傘か


伊東忠太が描いた「漏斗状に上向きに反轉した傘」のエスキースを見ると、傘の種類は「洋傘」のようですが、喜八郎は傘の種類について忠太にリクエストしていたのでしょうか?

そもそも喜八郎が「漏斗状になった傘の形」を見たのがいつなのか? 【上京する前の郷里にいたとき】とか【子どもの頃お使いにいったとき風の強い土手で】といった話が書かれているのを見ますが『鶴翁餘影』内の忠太が書いた文には、その辺のこと、傘の種類についても触れていません。

洋傘は幕末より前に日本に持ち込まれていたようですが、一般に普及しはじめたのは明治文明開化の頃。

もし「漏斗状の傘」の話が喜八郎が郷里にいるときの話だとしたら、喜八郎が上京したのが嘉永7(1854)年、江戸時代幕末なので洋傘はまだ普及していません。
※鶴友会発行「大倉鶴彦翁」には、安政元年10月頃と記されています。年号嘉永は嘉永7年の11月27日に安政に改元される。

ここで、ひとつ推測してみたのですが、喜八郎が江戸に行く途中に洋傘を持っている人を見つけて、その人の洋傘が風にあおられて漏斗状になり、それが旅立ちの思い出として鮮明に記憶に残って、年齢を重ねてから出立の決意を建物の形として残そうとした――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅱ)。

喜八郎が上京を決意して実行した時期は、嘉永6(1853)年ペリー率いる艦隊が浦賀沖に来航し、嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結されるなど、日本国内が大きく変わりはじめたとき。

嘉永7年にペリー提督一行が上陸したとき、洋傘を持っている人物が数名いて、日本人の多くが洋傘を目にしたそうです。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」

米船渡来見聞絵図
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/P15014?locale=ja


嘉永6(1853)年と翌年安政元(1854)年にペリー率いるアメリカ艦隊が来航したときの様子を描いた絵図。右端に傘の絵が描かれています。

喜八郎もその様子を目にしていたのかというと、喜八郎が上京したのは嘉永7年の10月頃で、そのときペリー艦隊は浦賀から離れて那覇、香港にいたので、喜八郎はペリー艦隊も洋傘も目にしていないでしょう。

では、上京する途中で洋傘を目にするような機会はあるか? と考えると新発田から新潟町へ出て江戸に向かったのなら、北前船の寄港地として栄えて賑わっていた新潟湊や全国屈指で祇園、新橋と並び称されていた古町花街で洋傘をさしている人が歩いていたかも――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅲ)。

そこで、古町芸妓さんを描いた浮世絵や写真の中に洋傘をさしているものがあるかも? と思って探してみましたが……洋傘を持っている古町芸妓さんの浮世絵や写真はありましたが明治以降の作品でした。

参考:豊原国周「戀湊女浪立田」明治8(1875)年

ただ、喜八郎が新発田から新潟町に出て江戸に向かったという想像Ⅲは正解でした。喜八郎のお姉さんが新潟町に嫁いでいて、そこに立ち寄ってから江戸に向かったという記述を見つけました(喜八郎上京いついてはまた後日)。

喜八郎が上京する前の新発田、上京途中の新潟町や江戸へ向かう街道でも洋傘を持つ人はまだいなかったと思います。「漏斗状の傘」は和傘だったのでしょう。

ではなぜ忠太は洋傘で描いたのか? 長くなったので続く。

2024年12月7日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その3)野帳のスケッチ

 

普光寺毘沙門堂
昭和61(1986)年スケッチ

一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料の野帳を見始めたのは、大倉喜八郎の京都の別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」のエスキースを探すためでした。

お目当ての「祇園閣」のエスキースを見つけるまで時間がかかりましたが、その間思わぬ発見があって、忠太が描いた普光寺のスケッチを見つけることができました。

日本建築学会 デジタルアーカイブス 伊東忠太の資料


一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料「野帳」は全部で75(55欠番)冊掲載されています。
1冊何ページもありますが、ページ毎にPDFになっていて、各冊に説明書きやサムネイルも丁寧に説明されていて、どの野帳にどんな内容が書かれているのかわかりやすいです。

資料を整理された方々のご苦労がわかります。資料をデジタルで拝見できるのは、とてもありがたいです。

野帳には建造物スケッチや調査資料のほか、目移りする魅惑的な風刺画や妖怪や神獣のイラストなど沢山描かれていて、お目当ての「祇園閣」のエスキース探しを忘れてしまうほど野帳を見るのに夢中になってしまったのです。

【野帳】は横長のノートですが「祇園閣」は高さがあるので、横長ノートを縦方向でエスキースが描かれていて(天地が左右になる)探しベタなせいもあり見落とし、野帳を二周くらい見て回って「祇園閣」のエスキースを【野帳40】で発見しました。

野帳50に描かれていた普光寺毘沙門堂


そんな【野帳】閲覧の中で「やった!」という思わぬ発見がありました。

【野帳50】大正六年後 雑記 大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃の説明文に「新潟県における文部省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ」と書かれています。

※【野帳33】には「内務省古社寺調査」と書かれていたのに【野帳55】では「文部省古社寺調査」?
それは、古社寺保存法の所管が大正2(1913)年に内務省から文部省へとなったからでした。

新潟県という文字に惹かれて【野帳50】のPDFを開いてみると、普光寺毘沙門堂について記した文とスケッチがあったのです! 

細かい建築部材のスケッチや古文書からの抜粋文などが書かれているのですが、8ページのスケッチは普光寺山門(仁王門)じゃないのかな? と。
あくまでも、スケッチと普光寺山門で自分で撮影した写真を見比べての私見ですが。

普光寺山門(仁王門)正面から回廊方面

普光寺山門(仁王門)正面

でも、下浦佐村天王寺 永徳二年一一月一三附 寄進状(もっと書かれていましたが読めませんでした) といった文字や、毘沙門堂という文字と部材スケッチ、多聞天堂という文字の横に平面図も描かれています。

普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定された時期は?


【野帳50】の説明文にある大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃に野帳を伊東忠太が執筆していたとしたら、それは普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定される前となります。

彌彦神社の毘沙門堂の特別保護建造物指定は「大正6年8月13日」。
参考:弥彦村 観光情報 文化財 

ちなみに、彌彦神社は明治45(1912)年に火災で社殿が焼失し大正5(1916)年に伊東忠太設計で社殿が再建されているので、彌彦神社境内末社十柱神社社殿の特別保護建造物指定と社殿再建が平行で進行していたのでしょう。

普光寺毘沙門堂も大正6年に特別保護建造物に指定されています。月日はいつなのか? という点ですが、資料を見つけられませんでした。大正六年八月までの間に指定された、ということは間違いなさそうです。

その理由は、大正6年に出版された「特別保護建造物并国宝目録」黒板勝美著に普光寺毘沙門堂と掲載されていて、同書【例言一】には次のように掲載されています。

本書は明治三十年十二月より大正六年八月(最近指定)に至る間に指定せられたる特別保護建造物及び國寶一切の目録なり。

つまり、普光寺毘沙門堂は大正六年の八月までの間に、特別保護建造物に指定されていたということ。

【野帳50】大正5年10月~大正6年2月までの間に伊東忠太が普光寺を訪れていたら、彼は昭和6年の火災で焼失する前の毘沙門堂を見たと思います。
【野帳50】に描かれているスケッチは焼失前の毘沙門堂のどこかを写したものなのでしょう。

忠太が何故、普光寺を訪れたのか? ということが気になりますね。

彌彦神社の再建と古社寺保存会委員としての活動、自身のフィールドワークを伊東忠太が新潟県内で行っていたと想像するとワクワクしますね。

2024年12月1日日曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その2)古社寺保存会

 


今日のイラストは、普光寺の山門(回廊側から)
昭和60(1985)年3月3日のスケッチ

新潟県南魚沼市にある越後浦佐普光寺の毘沙門堂と、新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後一宮彌彦神社はどちらも伊東忠太が設計を手がけています。
この2つの建物は、以前の建造物が火災で焼失し、忠太が再建設計を行ったという共通点がります。それ以外にも、毘沙門堂と彌彦神社には忠太が関係する共通点がありました。

越後一宮彌彦神社と普光寺毘沙門堂―伊東忠太再建設計


普光寺 毘沙門堂は室町前期の建物と言われていましたが、昭和6(1931)年に火災で焼失してしまいました。

その後、昭和12(1937)年、伊東忠太の設計で再建されたのが、現在の毘沙門堂。

残念ながら焼失してしまいましたが、室町前期に建てられたという毘沙門堂は大正6(1917)年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定されていました。

そして、越後一宮彌彦神社境内末社の十柱神社社殿も同年に特別保護建造物に指定されています。

参考:文化庁 文化財オンライン 弥彦神社境内末社十柱神社社殿


また残念なことに彌彦神社(社殿)も明治45(1912)年に火災で焼失し、大正5(1916)年に伊東忠太設計で再建されています。

十柱神社社殿は火災を逃れ、大正6(1917)年の特別保護建造物に指定されました。

彌彦神社と毘沙門堂は、特別保護建造物・火災・伊東忠太設計で再建という共通点があるのです。

古社寺保存会委員としての活動


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内にある、伊東忠太資料【野帳33】の説明文に、明治33(1900)年3~8月「内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの」と書かれています。

このとき、伊東忠太は内務省の「古社寺保存会委員」として活動していました。

明治初期、明治維新の混乱や改革で、美術品や宝物の輸出、仏像や建造物の破壊などが著しくなり、文化財が危機にさらされたのです。

これを保護するため、国は調査を行い「古器旧物」(古美術)維持修理のための保存金を公布しました。

その後、建物も維持保護するべきだという気運が高まり、古社寺の建物や宝物類を保護するための法律「古社寺保存法」が明治30(1897)年に成立します。
これに先立ち、古社寺の調査や学術的指導などを行うための諮問機関として「古社寺保存会」が明治29年に設置されています。

【野帳33】の説明文にあるように伊東忠太は、古社寺保存会の委員として日本各地を巡っていたのですね。

古社寺保存法については文部科学省のサイトに掲載されていますが、国立公文書館のサイトがわかりやすく当時の資料も見られるので、そちらのリンクを貼らせていただきます。

参考:国立公文書館 ようこそ歴史資料の宝庫へ Ⅰ歴史資料の世界③公文書の世界 15.明治時代の文化財保護政策

2024年11月30日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その1)まずは米山から

 

米山の山野草

今日のイラストは新潟県の上越市と柏崎市の境にある標高993mの米山に咲く山野草。

伊東忠太の残した資料


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内、建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料に、伊東忠太が書いた日記や書簡、古写真などが掲載されています。

これは、平成8(1996)年に伊東忠太のご遺族から寄贈された貴重資料を、整備委員会の方々が数年かけて調査整理作業を行い、データ化して閲覧利用できるようにしたものです。

資料の内容は

 ・野帳:明治27(1894)年頃~昭和22(1947)年頃にかけて、調査旅行の記録やスケッチ、建築作品の下絵、日 常記録などメモとして書かれたノート74冊

 ・葉書絵:大正3(1914)7年~昭和25(1950)年にかけて、伊東忠太が描いた絵葉書3717枚。

 ※そのうち、500枚が『阿修羅帳』として出版されています。

 ・うきよの旅:明治22(1889)年~明治26(1893)年の東京帝都大学工学部造家学科在籍時の日記。

 ・忠太自画傳,怪奇図案集甲,修学旅行記:単体で存在する記録や漫画。

 ・法隆寺関係資料:法隆寺に関するスケッチや写真、メモなど。

 ・書簡(リンクなし):お手紙。

 ・古写真:国内外の調査で撮影した古社寺や遺跡など。

 ・拓本:石碑から採取したもの。

 ・地図:国内外の地図類。

 ・スケッチ,下絵,書類:上杉神社再建や法隆寺などの図面ほか。印刷や複製が混在する。
 
・書類

という11の内訳で構成され掲載されています。

総資料数は8969点とのことで、最初の【野帳】は75項目(55欠番)にわかれていて、1項目ごとに伊藤忠太が記載したノート数十ページ(PDF)が掲載されています。

野帳33に描かれていた、米山のスケッチ


伊東忠太の野帳に、大倉喜八郎の京都にある別荘『眞葛荘』地内に作られた祇園閣の構想スケッチが描かれているというので、野帳を検索してみました。

大倉喜八郎は祇園閣を作るとき、伊東忠太に『傘が逆さになった(おちょこ)形』の建物を、という要望を出したそうです。
本当に傘が逆さになった建物を忠太が描いています。
※野帳40に収録されています

どうして、傘が逆さの建物をリクエストしたのか、というのは理由があったそうですが、そのお話しは後日……。

この、洋傘を逆さにした建物のイラストを見たくて、伊東忠太の野帳をずっと見ていましたら、

野帳33 福井、石川、富山、新潟、兵庫、高知、京都、奈良、滋賀
明治33(1900)年3月~8月にかけて行われた北陸調査(福井・石川・富山・新潟)で伊東忠太が描いた新潟県の米山のスケッチを見つけました。4月24日の日付で【柏崎より米山を望む】と。

これは、伊東忠太が内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの。

そして、内務省古社寺調査が、彌彦神社と普光寺毘沙門堂に関連するキーワードなのですが、このお話しも後日……。

今日は米山が主役。

新潟県の上越市と柏崎市の境にある標高993mの米山は、日本海を航海する船の目印とされてきた霊峰。

じつは、先日の、フォッサマグナの東側【新発田小出構造線】で紹介した谷文晁も米山を描いていて、文化9(1812)年に発行された全国から90の山を選んで刊行された『日本名山図会』に載っています。※こちらは以下の図書データベースで見ることができます。
『日本名山図会』(東京藝術大学附属図書館所蔵)
出典: 国書データベース

見ている方向が違うのか、谷文晁の米山と伊東忠太の米山とでは、山裾の広がりが反対になっていて面白いです。

さて、伊東忠太の野帳。おちょこの祇園閣エスキースを探すために検索していて見つけたのは、米山スケッチだけではありませんでした。

なんと【新潟県における文化省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ】が……つづく。

2024年11月27日水曜日

フォッサマグナの東側【新発田小出構造線】

普光寺山門(仁王門)谷文晁 双龍図

2024年辰年もあと1ヶ月ほど。

伊東忠太設計の建物が新潟県に2つあり、そのうちの1つは越後一宮彌彦神社で、もう1つが越後浦佐普光寺毘沙門堂です。

越後浦佐普光寺正面には山門(仁王門)があり、その楼閣天井には谷文晁の描いた双龍図があります(上記写真)。

普光寺山門(仁王門)正面

谷文晁の双龍図板絵について、越後浦佐普光寺のサイトに次のような紹介文があります。

山門の楼下天井の双龍図板絵は、関市四郎氏が親交のあった仏画師「板谷桂舟」に 筆労を依頼せんと、当町井口新左衛門をして天井板を江戸まで運ばせる途中、熊谷宿に宿泊。

たまたま同宿せる谷文晁師これを聞き、自ら筆を取りたき気持ちをおこし、新左衛門にその由を訴えたるも、新左衛門未だ文晁師を知らず、これを聞き入れざりしが、文晁師の願いしきりになるにより遂にこれを許したり

ちなみに関市四郎さんは、天保2年(1831年)に山門造営寄進をされた若松屋市四郎(関市四郎)さん。

※その息子さんのお話しは過去に書いていますので、よかったら読んでみてください⇒浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】


そして、谷文晁が描いた龍の絵が天井に飾られている建物が新潟県内には他にもあります。それは新発田にある蔵春閣です!

蔵春閣は大倉喜八郎の向島別邸にあった来賓を招くための建物で、新発田市に寄贈され令和5(2023)年から一般公開されています。

その蔵春閣、一階書斎の天井に、ある城の天守に用いられ谷文晁作といわれる龍が描かれています。

魚沼と新発田には、フォッサマグナの東側にある【新発田構造線】が走っています。

越後浦佐普光寺、新発田蔵春閣の場所がフォッサマグナの東側【新発田小出構造線】に乗っかっているのかな? と想像してみました。
参考:フォッサマグナとは 糸魚川市

そこに、谷文晁の描いた龍がにらみを利かせている。
なんて、格好いいと思いませんか?

2024年10月18日金曜日

向島別邸と蔵春閣


令和5(2023)年に新潟県新発田市に移築された大倉喜八郎の「蔵春閣」。

明治45(1912)年に「蔵春閣」を建てるとき、大倉喜八郎は伊東忠太や他の建築家に意見を求めたそうです。


今度此の向嶋の別莊を、新しく建て增すに當つても、片山博士だとか、妻木博士だとか、伊東博士だとかの、専門家の人達に、それぞれ相談をしたのである。


参考:1912年7月刊行「建築工藝叢誌」掲載の大倉喜八郎蔵春閣建築瑣談」より


蔵春閣の建築にも、伊東忠太は関係していたのですね。


伊東忠太が描いた日記やフィールドノート、絵葉書、写真など貴重な資料が日本建築学会建築博物館に所蔵されています。

それらはデジタルアーカイブスとして閲覧可能ですが(伊東忠太資料【古写真 国内建築写真など】)その中に、大倉喜八郎、向島別邸の写真もあるのです


※ちなみに、祇園閣の模型や京都の祇園鉾(長刀鉾かなぁ?)建築当時の祇園閣(眞葛荘もかな?)の写真もありますよ。


大倉喜八郎が京都別邸「眞葛荘」「祇園閣」を建てたいと伊東忠太に依頼したのは、大倉集古館の再建を依頼したのと同じ大正15(1926)年頃。

『向島別墅に呼ばれて~』と伊東忠太が回顧しています。

参考:鶴翁餘影』より


伊東忠太資料【古写真 国内建築写真など】の写真一覧リストには【大倉向島別邸】と記載されていますが……。

その写真の建物が、新発田に移設された蔵春閣と似て見えるのは、伊東忠太が大倉喜八郎に呼ばれて祇園閣の話を聞いた場所が蔵春閣で、その帰路に蔵春閣を写真に撮った、と想像してしまったからなのかもしれません。


2024年10月12日土曜日

2024年京都モダン建築祭で祇園閣が特別公開されますよ

2024年7月~9月【第49回 京の夏の旅】世界遺産&京の名建築と夏の庭 で祇園閣が特別公開されていました。

京の夏の旅

祇園閣

京都東山にある大倉喜八郎別荘(眞葛荘)地内に喜八郎90歳を記念して建築された楼閣です。

※眞葛荘、祇園閣ともに、京都市東山区にある 本山龍池山 大雲院(織田信長・信忠親子の菩提を弔うために天正15年に創建された寺院)境内にあります。

そしてなんと!

11月から開催される「2024年 京都モダン建築祭」のプログラムで

11月2日~3日の2日間、祇園閣が特別公開されます。


京都モダン建築祭とは?

京都モダン建築祭は、京都に現存する魅力的なモダン建築を一斉公開するプロジェクトです。2022年に文化庁京都移転記念事業として、京都モダン建築祭実行委員会と京都市 の共催でスタートしました。建築一斉公開イベントでは全国でも珍しい有料パスポート方式を初めて導入し、パスポート公開とガイドツアーを主なプログラムとして実施。 会期中、モダン建築に関するさまざまな催しが京都市内各所で一斉に行われます。

引用:京都モダン建築祭より


祇園閣内を見学する場合、京都モダン建築祭のパスポート購入が必要です。

建築祭の開催期間は前期(11月2日、3日)と後期(11月9日、10日)にわかれているので、祇園閣を見学するなら、前期パスポートを購入となります。
前期後期どちらも見学できる全期間パスポートもあり、そちらでもOK。

パスポートを購入すると、プログラムに参加している通常非公開の建築物やスペースを見学することができますよ。

祇園閣だけではなく、例えば11月2日は京都市円山公園音楽堂、11月3日は京都国立博物館 明治古都館・技術資料参考館・茶室堪庵などですね。

対象期間のパスポート公開建築物に何度も入場できるというのも嬉しい。
見逃し、見落としに気づいた場合、戻って見る。

京都モダン建築祭ではパスポートツアーの他にも、ガイドツアーや建築見学+ランチ、ディナー、宿泊つきの豪華プランもありますが、こちらは先着受付中なので受付終了のものもあります。

任天堂旧本社屋「丸福漊」に泊まるプランなど。豪華!

じつは、祇園閣のある喜八郎別荘の眞葛荘もガイドツアー特別見学開催されるのですが、事前予約抽選での受付で終了しています。落選残念。

11月9日開催予定の【平安神宮・京都国立近代美術館】倉方先生と2つの名作、非公開エリア特別見学&正式参拝 のガイドツアーも気になりますが、受付終了です。

平安神宮も伊東忠太設計。
ガイドの倉方先生(大阪公立大学教授、建築史家:倉方俊輔先生)は京都モダン建築祭実行委員で伊東忠太研究の第一人者。

眞葛荘、平安神宮のガイドツアーは受付終了で参加できませんが、見ることはできますからね。

また、2024年京都モダン建築祭のプログラムには入っていませんが、伊東忠太設計の建築物が京都にはまだあるので、真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)豊国廟を見学するのもいいかもしれません。

秋の古都でモダンな建築をめぐる旅もよさそう。

2024年10月10日木曜日

伊東忠太設計の建物【新潟県2】

新潟にも伊東忠太設計の建築物があるということについて、

1つは、越後一宮 彌彦神社 ですが

もう1つは…ジャジャーン

越後浦佐 普光寺にある毘沙門堂(南魚沼市浦佐)です。

普光寺毘沙門堂

写真は山門側から見た、毘沙門堂。大ロウソクが置かれています。

彌彦神社もそうでしたが、毘沙門堂も火災後の再建設計を伊東忠太が手がけております。
※昭和12(1937)年完成

毘沙門堂と宝蔵殿の間にある廊下に、伊東忠太の設計図が展示されていますよ。

さて。

普光寺の山門楼閣天井には双龍が描かれた板絵があります。



作者は谷文晁

そして、谷文晁が描いた龍の絵が天井に飾られている建物が、新潟県内にはまだあるのです。

なんとそれは!

蔵春閣

つづく(引っ張る)。

2024年8月29日木曜日

伊東忠太設計の建物【新潟県1】

祇園閣の設計を手がけたのは、工学博士で建築家の伊東忠太です。

平安神宮、明治神宮など著名な建築設計を行っていて、個人邸宅や記念碑、お墓なども設計していたそうです。

そして、不思議な動物や妖怪のモチーフの飾りを建物に施すというのが伊東忠太の建築物の特色。


幼少から絵を描くのが好きだったようで、魑魅魍魎の姿をかりて社会情勢を絵葉書に綴った風刺漫画(大正3年~昭和25年にかけて)が「阿修羅帖」として出版されています。


そして、6月の記事で、新潟にも伊東忠太設計の建築物があると触れました。



越後一宮 彌彦神社 一の鳥居


越後一宮 彌彦神社は明治末に本殿他が火災で焼失し、大正5年に伊東忠太設計により再建されました(現在の本殿や諸殿舎)。

越後一宮 彌彦神社 社殿前 狛犬


写真は本殿前の狛犬。こちらも伊東忠太デザイン。
この狛犬を見るたびに、シュっとした格好いい狛犬だなぁと思っていたのですが、伊東忠太デザインとわかり、何となくしっくりきました。


祇園閣前 ライオン像

こちらは京都の祇園閣前のライオン像。雰囲気似ていますかね。


そして、新潟県内で伊東忠太が設計した建物がもう1つあります、それは――

普光寺山門

この山門の奥にあります。
つづく(引っ張る)。



2024年8月28日水曜日

京の夏の旅~祇園閣

6月の記事、蔵春閣から祇園閣、大倉喜八郎から伊東忠太へ

で、京都にある大倉喜八郎の別荘、祇園閣について触れました。

が、正しくは……大倉喜八郎の別荘は眞葛荘。

祇園閣は、別荘地内に大倉喜八郎90歳を記念して建築された楼閣なのですね。


眞葛荘、祇園閣ともに、京都市東山区にある 本山龍池山 大雲院(織田信長・信忠親子の菩提を弔うために天正15年に創建された寺院)境内にあります。


祇園祭の山鉾をイメージしたという祇園閣は、八坂神社やねねの道からも見えるちょっと気になる建物。

その祇園閣が9月30日まで特別公開されています♪

【第49回 京の夏の旅】世界遺産&京の名建築と夏の庭 大雲院 祇園閣

ガイドと歩く「名勝丸山公園から京都一望の祇園閣へ」というツアーも開催中。

※これからの日程は8月31日(土)9月7日(土)14日(土)16日(月祝)21日(土)23日(月祝)28日(土)

祇園閣

※外から祇園閣を撮影するのはOKですが、内部や閣上からの撮影はNGです。

祇園閣を拝観する前に大雲院本堂へ参拝すると、そこでガイドの方から大雲院の由緒や祇園閣について説明をしていただき、詳しく知ることができました。

祇園閣内部で目を引くのが、壁面に描かれた色鮮やかな敦煌の壁画の模写。

昭和63(1988)年に描かれたそうです。

でも、それよりも目を奪われたのが、丸い照明器具を持つ青銅製の奇獣。

写真参照:祇園閣内部の照明
【本山龍池山 大雲院 
祇園閣と大倉喜八郎より】


内部の天井にある十二支の装飾や阿弥陀如来像など、見どころはたくさんありますが、一番印象に残ったのが、妖怪フリークと呼ばれた伊東忠太の嗜好がわかる照明器具でした。

閣上は一周することができるので、周囲の眺望を360度眺めることができます。


さて、祇園閣が特別公開しているように、第49回「京の夏の旅」では、世界遺産登録30周年記念&京の名建築と夏の庭をテーマに、通常非公開の文化財が9月30日までの期間限定で特別公開されています。

そして、スタンプラリーも開催されていて、特別公開対象箇所(旧三井家下鴨別邸を除く)から2箇所拝観してスタンプを集めると、指定の場所で涼味メニューの特典が受けられます♪

祇園閣と八坂神社、近いので両方拝観して2箇所スタンプゲットしました。


さてさて、今回は祇園閣を見たい気持ちが急いて、大倉喜八郎の別荘、眞葛荘の様子や大雲院の総門や南門、鐘楼などを拝観しなかったのが失敗点でした。

大雲院の境内は歴史的な建物がたくさんあるので、ゆっくり散策してくださいね。