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2024年12月7日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その3)野帳のスケッチ

 

普光寺毘沙門堂
昭和61(1986)年スケッチ

一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料の野帳を見始めたのは、大倉喜八郎の京都の別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」のエスキースを探すためでした。

お目当ての「祇園閣」のエスキースを見つけるまで時間がかかりましたが、その間思わぬ発見があって、忠太が描いた普光寺のスケッチを見つけることができました。

日本建築学会 デジタルアーカイブス 伊東忠太の資料


一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料「野帳」は全部で75(55欠番)冊掲載されています。
1冊何ページもありますが、ページ毎にPDFになっていて、各冊に説明書きやサムネイルも丁寧に説明されていて、どの野帳にどんな内容が書かれているのかわかりやすいです。

資料を整理された方々のご苦労がわかります。資料をデジタルで拝見できるのは、とてもありがたいです。

野帳には建造物スケッチや調査資料のほか、目移りする魅惑的な風刺画や妖怪や神獣のイラストなど沢山描かれていて、お目当ての「祇園閣」のエスキース探しを忘れてしまうほど野帳を見るのに夢中になってしまったのです。

【野帳】は横長のノートですが「祇園閣」は高さがあるので、横長ノートを縦方向でエスキースが描かれていて(天地が左右になる)探しベタなせいもあり見落とし、野帳を二周くらい見て回って「祇園閣」のエスキースを【野帳40】で発見しました。

野帳50に描かれていた普光寺毘沙門堂


そんな【野帳】閲覧の中で「やった!」という思わぬ発見がありました。

【野帳50】大正六年後 雑記 大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃の説明文に「新潟県における文部省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ」と書かれています。

※【野帳33】には「内務省古社寺調査」と書かれていたのに【野帳55】では「文部省古社寺調査」?
それは、古社寺保存法の所管が大正2(1913)年に内務省から文部省へとなったからでした。

新潟県という文字に惹かれて【野帳50】のPDFを開いてみると、普光寺毘沙門堂について記した文とスケッチがあったのです! 

細かい建築部材のスケッチや古文書からの抜粋文などが書かれているのですが、8ページのスケッチは普光寺山門(仁王門)じゃないのかな? と。
あくまでも、スケッチと普光寺山門で自分で撮影した写真を見比べての私見ですが。

普光寺山門(仁王門)正面から回廊方面

普光寺山門(仁王門)正面

でも、下浦佐村天王寺 永徳二年一一月一三附 寄進状(もっと書かれていましたが読めませんでした) といった文字や、毘沙門堂という文字と部材スケッチ、多聞天堂という文字の横に平面図も描かれています。

普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定された時期は?


【野帳50】の説明文にある大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃に野帳を伊東忠太が執筆していたとしたら、それは普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定される前となります。

彌彦神社の毘沙門堂の特別保護建造物指定は「大正6年8月13日」。
参考:弥彦村 観光情報 文化財 

ちなみに、彌彦神社は明治45(1912)年に火災で社殿が焼失し大正5(1916)年に伊東忠太設計で社殿が再建されているので、彌彦神社境内末社十柱神社社殿の特別保護建造物指定と社殿再建が平行で進行していたのでしょう。

普光寺毘沙門堂も大正6年に特別保護建造物に指定されています。月日はいつなのか? という点ですが、資料を見つけられませんでした。大正六年八月までの間に指定された、ということは間違いなさそうです。

その理由は、大正6年に出版された「特別保護建造物并国宝目録」黒板勝美著に普光寺毘沙門堂と掲載されていて、同書【例言一】には次のように掲載されています。

本書は明治三十年十二月より大正六年八月(最近指定)に至る間に指定せられたる特別保護建造物及び國寶一切の目録なり。

つまり、普光寺毘沙門堂は大正六年の八月までの間に、特別保護建造物に指定されていたということ。

【野帳50】大正5年10月~大正6年2月までの間に伊東忠太が普光寺を訪れていたら、彼は昭和6年の火災で焼失する前の毘沙門堂を見たと思います。
【野帳50】に描かれているスケッチは焼失前の毘沙門堂のどこかを写したものなのでしょう。

忠太が何故、普光寺を訪れたのか? ということが気になりますね。

彌彦神社の再建と古社寺保存会委員としての活動、自身のフィールドワークを伊東忠太が新潟県内で行っていたと想像するとワクワクしますね。

2024年12月1日日曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その2)古社寺保存会

 


今日のイラストは、普光寺の山門(回廊側から)
昭和60(1985)年3月3日のスケッチ

新潟県南魚沼市にある越後浦佐普光寺の毘沙門堂と、新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後一宮彌彦神社はどちらも伊東忠太が設計を手がけています。
この2つの建物は、以前の建造物が火災で焼失し、忠太が再建設計を行ったという共通点がります。それ以外にも、毘沙門堂と彌彦神社には忠太が関係する共通点がありました。

越後一宮彌彦神社と普光寺毘沙門堂―伊東忠太再建設計


普光寺 毘沙門堂は室町前期の建物と言われていましたが、昭和6(1931)年に火災で焼失してしまいました。

その後、昭和12(1937)年、伊東忠太の設計で再建されたのが、現在の毘沙門堂。

残念ながら焼失してしまいましたが、室町前期に建てられたという毘沙門堂は大正6(1917)年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定されていました。

そして、越後一宮彌彦神社境内末社の十柱神社社殿も同年に特別保護建造物に指定されています。

参考:文化庁 文化財オンライン 弥彦神社境内末社十柱神社社殿


また残念なことに彌彦神社(社殿)も明治45(1912)年に火災で焼失し、大正5(1916)年に伊東忠太設計で再建されています。

十柱神社社殿は火災を逃れ、大正6(1917)年の特別保護建造物に指定されました。

彌彦神社と毘沙門堂は、特別保護建造物・火災・伊東忠太設計で再建という共通点があるのです。

古社寺保存会委員としての活動


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内にある、伊東忠太資料【野帳33】の説明文に、明治33(1900)年3~8月「内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの」と書かれています。

このとき、伊東忠太は内務省の「古社寺保存会委員」として活動していました。

明治初期、明治維新の混乱や改革で、美術品や宝物の輸出、仏像や建造物の破壊などが著しくなり、文化財が危機にさらされたのです。

これを保護するため、国は調査を行い「古器旧物」(古美術)維持修理のための保存金を公布しました。

その後、建物も維持保護するべきだという気運が高まり、古社寺の建物や宝物類を保護するための法律「古社寺保存法」が明治30(1897)年に成立します。
これに先立ち、古社寺の調査や学術的指導などを行うための諮問機関として「古社寺保存会」が明治29年に設置されています。

【野帳33】の説明文にあるように伊東忠太は、古社寺保存会の委員として日本各地を巡っていたのですね。

古社寺保存法については文部科学省のサイトに掲載されていますが、国立公文書館のサイトがわかりやすく当時の資料も見られるので、そちらのリンクを貼らせていただきます。

参考:国立公文書館 ようこそ歴史資料の宝庫へ Ⅰ歴史資料の世界③公文書の世界 15.明治時代の文化財保護政策

2024年8月29日木曜日

伊東忠太設計の建物【新潟県1】

祇園閣の設計を手がけたのは、工学博士で建築家の伊東忠太です。

平安神宮、明治神宮など著名な建築設計を行っていて、個人邸宅や記念碑、お墓なども設計していたそうです。

そして、不思議な動物や妖怪のモチーフの飾りを建物に施すというのが伊東忠太の建築物の特色。


幼少から絵を描くのが好きだったようで、魑魅魍魎の姿をかりて社会情勢を絵葉書に綴った風刺漫画(大正3年~昭和25年にかけて)が「阿修羅帖」として出版されています。


そして、6月の記事で、新潟にも伊東忠太設計の建築物があると触れました。



越後一宮 彌彦神社 一の鳥居


越後一宮 彌彦神社は明治末に本殿他が火災で焼失し、大正5年に伊東忠太設計により再建されました(現在の本殿や諸殿舎)。

越後一宮 彌彦神社 社殿前 狛犬


写真は本殿前の狛犬。こちらも伊東忠太デザイン。
この狛犬を見るたびに、シュっとした格好いい狛犬だなぁと思っていたのですが、伊東忠太デザインとわかり、何となくしっくりきました。


祇園閣前 ライオン像

こちらは京都の祇園閣前のライオン像。雰囲気似ていますかね。


そして、新潟県内で伊東忠太が設計した建物がもう1つあります、それは――

普光寺山門

この山門の奥にあります。
つづく(引っ張る)。



2024年6月30日日曜日

蔵春閣から祇園閣、大倉喜八郎から伊東忠太へ

 


2023年『蔵春閣』が新潟県新発田市の東公園に移築されました。

蔵春閣は、東京の向島、隅田川沿いにある大倉喜八郎の別邸内に、政財界の人々や海外の賓客をもてなすための迎賓館として明治45年に建てられた建物です。

その後、向島から船橋へ移設。2012年~2013年に解体、大倉文化財団より新発田市へ寄贈。

2020年より移築着工。

2023年4月29日に一般公開されました。

蔵春閣で目をひくのは、室内の装飾。

大倉翁が蒐集した美術品や工芸品などがあちこちに使われ、建物そのものがまさに文化財。



なのですが、注目はそれだけではなく、建物の移築(修復・施工)をした大成建設さんの匠の技!

ここはあえて新発田市が紹介する蔵春閣のサイトではなく、大成建設さんの蔵春閣移築プロジェクトについてのサイトをリンクさせていただきます。

de'-TAISEI DESIGN WORKS2023 蔵春閣


蔵春閣や大倉翁については、こんかいこれくらいで。

別の機会にゆっくりまた。


今日の主は、京都にある大倉翁の別荘(別邸)。

その地にある祇園閣。

祇園祭りの山鉾をイメージして作られた祇園閣は銅閣寺という別名を持っています。


―屋根は銅板葺きであるが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作らせたためである―

引用:Wikipediaより


※今日のイラストは金閣寺(銅閣寺つながりで)


そして、祇園閣の設計を手がけたのが、建築家の伊東忠太。

平安神宮、明治神宮、大倉集古館など多くの作品を手がけているのですが。

実は蔵春閣を作るとき、大倉喜八郎は伊東忠太に意見を求めています。また、東京港区にある「大倉集古館」の設計も伊東忠太が手がけています。

さらに、新潟にも伊東忠太設計の建物があるのです……それは!