令和5(2023)年に新潟県新発田市に移築された大倉喜八郎の「蔵春閣」。
明治45(1912)年に「蔵春閣」を建てるとき、大倉喜八郎は伊東忠太や他の建築家に意見を求めたそうです。
今度此の向嶋の別莊を、新しく建て增すに當つても、片山博士だとか、妻木博士だとか、伊東博士だとかの、専門家の人達に、それぞれ相談をしたのである。
参考:1912年7月刊行「建築工藝叢誌」掲載の大倉喜八郎「蔵春閣建築瑣談」より
蔵春閣の建築にも、伊東忠太は関係していたのですね。
伊東忠太が描いた日記やフィールドノート、絵葉書、写真など貴重な資料が日本建築学会建築博物館に所蔵されています。
それらはデジタルアーカイブスとして閲覧可能ですが(伊東忠太資料【古写真 国内建築写真など】)その中に、大倉喜八郎、向島別邸の写真もあるのです
※ちなみに、祇園閣の模型や京都の祇園鉾(長刀鉾かなぁ?)建築当時の祇園閣(眞葛荘もかな?)の写真もありますよ。
大倉喜八郎が京都別邸「眞葛荘」「祇園閣」を建てたいと伊東忠太に依頼したのは、大倉集古館の再建を依頼したのと同じ大正15(1926)年頃。
『向島別墅に呼ばれて~』と伊東忠太が回顧しています。
参考:『鶴翁餘影』より
伊東忠太資料【古写真 国内建築写真など】の写真一覧リストには【大倉向島別邸】と記載されていますが……。
その写真の建物が、新発田に移設された蔵春閣と似て見えるのは、伊東忠太が大倉喜八郎に呼ばれて祇園閣の話を聞いた場所が蔵春閣で、その帰路に蔵春閣を写真に撮った、と想像してしまったからなのかもしれません。