2025年12月14日日曜日

大力山と八海山

 


大力山と八海山

平成3(1991)年、12月8日スケッチ

大力山は標高504mの山で、越後三山(八海山・中ノ岳・駒ヶ岳→はなこさん)が望める、見晴らしのいい山です

とよじいのイラストに「黒禿の頭」という名前が出てくるときがあるのですが、大力山からいけるようですね

トヤの頭とか駒の頭とか頭周遊コースもあるようです

頭とは・・・

2025年11月27日木曜日

小出公園から越後三山(はなこさん)を望む

 初冬の魚沼

見晴らしの湯こまみから、もうすぐスキーシーズンの小出公園小出スキー場)へ


山岡荘八、文学碑広場から越後三山(右から八海山、中ノ岳、駒ヶ岳)はなこさんを望む

山岡荘八は小出町佐梨出身の作家

『徳川家康』が代表作

石碑がある広場には東屋(展望休憩舎)もあって、ひと休みしながら町並みや山々を眺めるのにとってもいい所

11月は枯葉で彩られていますが、これからの雪景色、春の花々、新緑、青緑と、いつの季節も折々の自然が楽しめます

公園や駒見山などを散策して、日帰り温泉「見晴らしの湯こまみ」でくつろぎながら、魚沼三山を眺める(お風呂から)のもいいですよ

小出スキー場の帰りに、こまみ♨️もおすすめ

2025年11月9日日曜日

グシガハナコースより中ノ岳

 


平成16(2004)年10月16日スケッチ

グジガハナより中ノ岳

先日アップした「グジガハナより荒沢岳」と同日登山のスケッチ

グシガハナの尾根を進んだ先に、駒ヶ岳へ向かうルートと中ノ岳へ向かうルートにわかれる分岐があります

そのグシガハナ分岐から駒ヶ岳にいってから、グシガハナ分岐に戻り、中ノ岳へと向かう縦走コースも

イラストはクシガハナから見た景観で、グシガハナの様子がわからないので、クシガハナ付近の地形がわかるサイトを以下にご紹介

地質・地形情報ポータルサイト「日本の地形千景」越後駒ヶ岳水無川の土石流堆積地形

稜線の様子がよくわかります

2025年11月5日水曜日

グシガハナ

 


平成16(2004)年10月11日スケッチ

グジガハナより荒沢岳

父の登山&スケッチで「グジガハナより」と書かれているものが数枚あります

「グ」の文字が「ブ」に見えるものもあり、ブシガ鼻なのかグシガ鼻なのかわからなかったのですが、調べてみて「グシガハナ」が正解とわかりました

新潟県南魚沼市にある標高1811mの山で、駒ヶ岳登山コースのひとつに「グシガハナコース」があるようです

眺望がよく魚沼の山々がみわたせるとのこと

だから、紅葉シーズンの登山&スケッチが多いのか

八海山、中ノ岳を望むイラストも、アップしていきましょう

2025年10月19日日曜日

八海山 屏風堂コースより


 平成6(1994)年10月10日、スケッチ

八海山にて(屏風道コース) 千本檜小屋手前

千本檜小屋は八海山の九合目にある山小屋

7月から10月下旬まで営業しているそうです

もうすぐ2025年シーズンの営業終了ですね

10月も下旬となると、山も秋から冬への装いがスタートするころ

とはいえ、魚沼の里では先日ツクツクボウシが鳴いていたとのこと

ツクツクボウシは晩夏から初秋にかけて発生するセミとWiki先生には書かれていますが、初秋って今の感じだといつまでになるのかなぁ?

2025年10月18日土曜日

便乗して八海山 2025

 

今日はおいしいSAKEを♪

便乗して、駒ヶ岳山頂より望む八海山のイラスト

でも、魚沼のお酒といえば緑川

なので、越後三山(駒ヶ岳、中ノ岳、八海山)



平成4(1992)年、10月18日のイラスト

巻機山より越後三山

2025年10月4日土曜日

米山より日本海を望む

 


米山より日本海を望む

年不明、10月1日スケッチ

米山は新潟県上越市と柏崎市の境にある、標高992.5mの山。

山の名前の由来は、最澄の弟子が海を渡る強欲な船主から米俵を(米山に)飛ばしたという伝説から。

過去記事「伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その1)まずは米山から」

で、明治から昭和の建築家で古社寺保存法にも携わった伊東忠太が古社寺保存調査で新潟県を訪れた際、米山のスケッチがフィールドノートに残っていると紹介しました。

今は道路や橋梁があるので、忠太が旅した頃とでは米山付近の風景は大きく変わっていますが、米山そのものの姿は忠太が見たときと変わっていない、のでしょうかね。

2025年10月1日水曜日

御月山手前ピークより八海山

 


御月山手前ピーク 八海山

平成9(1997)年、9月21日スケッチ

御月山は標高1819mの山で、中ノ岳~八海山、縦走路の途中にあります。

地図でみると、中ノ岳避難小屋で八海山方向と駒ヶ岳方向に縦走路が分岐しています。

越後駒ヶ岳~中ノ岳~(御月山)八海山

八海山~(御月山)中ノ岳~越後駒ヶ岳

という越後三山縦走ルートですね。

私は縦走したことないので(すみません)

イラストがどっちルートの御月山手前で八海山を見て描いたのか?です。

八ツ峰も描かれていますもんね。


2025年9月30日火曜日

八海山 千本檜小屋に

 


八海山 千本檜小屋に

年月不明スケッチ

八海山は南魚沼市にある標高1778mの山。

古来から霊山として崇められ、山岳信仰の場にもなっています。

八海山麓の登山口では、積み上げた杉木を燃やし、火が静まったころ(でも熱い)裸足で渡る火渡り祭が開催されます。

5月には大倉口の里宮

6月は城内口の里宮

10月は大崎口、八海山尊神社で大火渡祭が行われます。

誰でも参加可能ですが、八海山尊神社のHPには

 どうか心身ともに引き締めて清浄な心持ちでお渡り下さい。

と書かれています。霊峰八海ですから、引き締めて望むのが◎でしょう。

そして霊峰八海の山頂には八ツ峰と呼ばれる8つの岩峰群があります。

最高峰(1778m)入道岳は、八ツ峰をクリアした先に見えてきます。

越後三山(魚沼三山)のうち八海山は一番標高が低いのですが、岩場鎖場アップダウンが多いことから難しい山と言われています。

イラストにある千本檜小屋は八海山の九合目にある山小屋。

千本檜小屋で休憩後、八ツ峰にアタック!

千本檜小屋は宿泊もできるので、体を休ませて翌日進むこともできますよ。

2025年9月29日月曜日

魚沼三山ははなこさん 摩利支岳より駒ヶ岳

 


摩利支岳(八海山 ハツ峰)より駒ヶ岳

年不明、9月24日スケッチ

八海山は南魚沼市にある標高1778mの山。

越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山の3峰で越後三山(魚沼三山)と呼ばれています。

麓からもよく見える越後三山。

南魚沼市、魚沼市にはあちらこちらに景観ポイントがあって、越後三山の紹介看板が。

関越自動車道にも「越後三山」の看板が建っています。

越後三山は新潟県側から「八海山・中ノ岳・駒ヶ岳」と並んで見えるのですが、この並びを「はなこさん」と覚えておくと、どの峰がどの山かわかるそうです。

は⇒八海山

な⇒中ノ岳

こ⇒駒ヶ岳

はなこ山、ってなるわけですね。

2025年9月28日日曜日

小兎岳より駒ヶ岳

 


小兎岳より駒ヶ岳

平成11(1999)年、9月27日スケッチ

小兎岳は魚沼市と南魚沼市の境にある標高1855mの山。

中ノ岳と兎岳を結ぶ稜線上に兎岳は位置しています。

兎岳からは巻倉山へと続く分岐、大水上山へと続く分岐があります。

長野県にも兎岳(静岡県との境)と小兎岳がありますが、どちらも2000m級の山。

長野県の兎岳は山麓を流れる兎洞(沢)に由来するという説がありますが、新潟県の兎岳は名前の由来として「残雪の雪形」が兎に似ているからという説があります。

雪形が山名になった山は多く、代表的なのが残雪の雪形が「馬」に似ていることから名付けられた駒ヶ岳。

日本には駒ヶ岳がいっぱいあり、新潟県だけでも越後駒ヶ岳、朝日駒ヶ岳(村上市)、頸城駒ヶ岳(糸魚川市)と3つ。

雪形は農作業の目安(農事暦)とされてきたので、農作業の友であった馬が雪形として登場する(見えてしまう)ことが多いのでしょうかね?




2025年9月24日水曜日

不動岳より中ノ岳

 


不動岳(八海山 八ツ峰)より中ノ岳

年不明9月24日スケッチ

スケッチ裏に登山メモあり【以下】

 AM6:00出発

 大倉口より登山始め 6:30分

 その後、ポット(水筒)をわすれ、

 電話をし(家人に)持参してもらい

 再度登山 7:05分

 10:20分 四合半出合

 千本槍小屋 12:45分出発下山

 大倉口 PM4:05

八海山どこまで登ったの?

2025年9月23日火曜日

平成2年の8月

 


至仏(岳)より(尾瀬ヶ)原、燧ヶ岳

平成2(1990)年8月のスケッチ

尾瀬スケッチシリーズ(まだあった)5枚目イラスト

2025年9月21日日曜日

平成4年の10月

 


尾瀬ヶ原と至仏岳

平成4(1992)年10月のスケッチ

尾瀬スケッチシリーズ4枚目イラスト

スケッチ裏に登山メモあり【以下】

 アクシデント有り(小さな)

 下山時間がおくれ、御池までに暗くなり

 明りのの無かった事を反省させられる

 御池着 5:30分すぎ(秋で日が落ちるのが早い)

秋の日はつるべ落とし、ですね

2025年9月15日月曜日

昭和62年の9月


 尾瀬

昭和62(1987)年9月のスケッチ

裏燧ヶ岳なのか、裏燧林道なのか?

2025年9月14日日曜日

昭和42年の10月


 紅、燧ヶ岳へ

昭和42(1967)年10月のスケッチ

昨日アップの昭和49(1974)年、7年後の燧ヶ岳とくらべて、どうですか?



2025年9月13日土曜日

昭和49年の9月

 


至仏山より尾瀬ヶ原と燧ヶ岳

昭和49(1974)年9月のスケッチ

山々は変わらずにいてくれる・・・?

2025年8月23日土曜日

過ぎゆく夏? ねぶた祭ハネトのイラスト

 


 残暑お見舞い申し上げます

 立秋すぎたので残暑ですが・・・

 過ぎゆく夏、ではない感じですね



2025年3月17日月曜日

便乗して八海山

 

大力山より八海山

世の中に便乗して、八海山のイラスト。

大力山より駒ヶ岳

でも、魚沼市のお酒といえば緑川。


2024年12月16日月曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その3)

大倉喜八郎の京都別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」。楼閣が今の祇園祭山鉾の形に落ち着くまでには、設計者・伊東忠太と喜八郎の対話が何度かあったようです。


奈良国立博物館 収蔵
十二神将立像

今日の写真は、奈良国立博物館収蔵の十二神将立像です。
なぜ、この写真か? というのは文内で、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」の資料を活用させていただいたから。


十二神将像
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/858-0?locale=ja)

6神写真撮影をするのを忘れてしまっていたので6神の写真をColBaseを利用して掲載。
このような感じで、今回の文章内にも浮世絵画像を掲載しました。

浮世絵に見る、風に吹かれて漏斗状になる和傘


大倉喜八郎が「漏斗状になった傘」を見たのは、上京する嘉永7(1854)年前の郷里・新発田にいた頃という説があります。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」では、上記の忠太とのやりとりの中で喜八郎が『子どものとき、雨風の強い日に使いに出されて、土手を歩いていると傘がおちょこになった』と話す描写があります。また、昭和2(1927)年「財団法人大倉集古館、祇園閣、京都大倉別邸建築記念写真帖」大倉土木株式会社には、喜八郎が子どもの頃に持っている傘が突風に吹かれて破れて逆立ちという記述があるようです(同書籍未確認)。

喜八郎幼少の頃、となると洋傘が流行る前ですので「和傘」が逆さになったのを見たと思うのですが、ここで話が逸れますが「和傘って漏斗状になるの?」という疑問が芽生えたので浮世絵を探してみました。

浮世絵を探すとき、とても便利だったのが、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」。
国立文化財機構の4つの国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)と2つの研究所(東京文化財研究所、奈良文化財研究所)の収蔵品や、皇居三の丸尚蔵館の収蔵品を検索できる横断システム。

画像を活用できるので、とってもありがたい! 早速活用させていただきました。

ColBaseの活用方法、画像利用についてはこちらのブログ記事に詳しく掲載せれています。
参考:独立行政法人国立文化財機構 文化財活用センター ブログ「ColBaseを活用しよう!ColBaseの画像利用について」

歌川国芳「百人一首之内・文屋康秀」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-5356?locale=ja)



「和傘が漏斗状になるのか?」という疑問へのアンサー浮世絵。見事に反転しています、風に吹かれて漏斗状になっていますね。傘を地面に押しつけて飛ばされないようにしているので、かなりの強風、突風だったのでしょう。

ところで、雨の日に傘をさしていて、風が強くなったら傘をすぼめる――というのが、傘が反転しない秘訣。

喜多川歌麿「江戸八景・衣紋坂乃夜の雨」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4282?locale=ja)


籠の左側にいる男性、傘をすぼめて走っています。

大倉喜八郎は幼名を鶴吉と呼ばれていたのですが鶴吉少年は「幼にして頴敏聰悟(頴悟聰敏の誤字かな?)嶄然として頭角を出して居たことは、當時人皆翁を呼んで小太閤と稱して居たことでも判る。是れ翁の面貌が豊太閤に似て居ると云ふのではなく、大膽にして小心、敏捷にして機智に富んで居たから」と書籍「大倉鶴彦翁」鶴友會発行に記されていました。

そんな鶴吉少年ですから、大切な傘を壊さないように注意してさしていたと思います。それでも、突然に突風が吹いて傘が裏返ってしまった――としたら強く印象に残りますね。

忠太が思い描いたのは和傘か洋傘か?


喜八郎の「傘が漏斗状になった建物」を造りたいという空前絶後の計画を諦めてもらうために忠太が珍妙な草案を造って見せたという話もありますが、忠太が喜八郎の依頼に本気で向き合って日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】に見る「漏斗状の傘」をモチーフにした數案を作ったかもしれません。

喜八郎にとっての「傘」は鶴吉少年時代に持っていた和傘で、忠太にとって「傘」といえば洋傘を思い浮かべたとしたら。

「傘」と聞いてイメージするものが喜八郎と忠太では違っていたのではないか、という推測。

伊東忠太の父親は長崎で医学を学び軍医となった人物で、伊東家は代々医を業としていて祖父も長崎でシーボルトに医学や蘭学を学んでいます。

洋傘は明治以前にも日本に入ってきていて、江戸時代後期文化元(1804)年の長崎で唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られ、これが現在、書物の中に見られる洋傘として特定できる最古の記録とのこと。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」より抜粋

忠太の祖父や父が洋傘を持っていたとしたら、傘といえば洋傘というイメージが強くなるかもしれません。

それから、喜八郎の向島別邸に呼ばれて「漏斗状になった傘の建物」を建てたいという話を聞いた時期について。「趣味の鶴彦翁」で忠太は『或る時』と書いていますが、喜八郎と忠太の交流は大正元(1912)年に喜八郎の向島別邸を造る際に忠太が相談を受けたころからスタートしています。そして祇園閣の工事着工は大正15(1926)年なので、「漏斗状になった傘の建物」の依頼を受けた「或る時」は大正時代と思われます。

大正といえばモダンガールがお洒落のアイテムとして洋傘を持ち歩いたとき。時代的にも「傘」というと「洋傘」というイメージが忠太の頭に浮かんだのかもしれません。

そうだとしても、依頼の思いやイメージを推測するでしょうし、それを重視するでしょうから、喜八郎が「和傘」をイメージして依頼したとわかっていながら、空前絶後の計画を諦めてもらうために珍妙な案をつくるためにあえて「洋傘」で描いた…という作戦だったのかもしれません。

まとめ


話をしていてお互い「そうそう」と言ってわかったつもりになっていても、実は違うものを頭の中では思い描いているということは往々にしてあることです。

実際は相反していてそれぞれ平行で進んでいるけれど、会話は交わっていて成り立っているように感じられる。後になって「言っていることと違うじゃん!」となる。違いに気づかず人に伝わると、まったく違う内容になってしまうなど。

忠太が絵に描いて見せたことで「漏斗状になった傘」がイメージとは違って「これはいかん」と喜八郎は言うわけですが、だからこそ次に『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』といって依頼するとき『寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明』したのでしょう。

忠太は山鉾形も実は反対だったけれど、写真を見せて詳細説明されたことで、断れなくなった…なんて記述はありません。妄想です。


あ。

「祇園閣が山鉾の形になった理由」についてですが。

昭和4(1929)年発行の大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太が寄せた「趣味の鶴彦翁」には祇園閣を建てるまでの経緯(喜八郎からの依頼、山鉾の形になるまで、二人のやりとり)が忠太視点で書かれています。

『祇園の鉾の形をそのまゝ建築化したものを造って貰ひ度い』と喜八郎から忠太は頼まれますが、その目的を喜八郎は『私の記念事業の一つとして、京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高楼を作り、京都名所の一つにするのだ』と語ったそうです。

その完成を見ることなく、大倉喜八郎は永眠してしまいます。平成9(1997)年に祇園閣は登録有形文化財(建造物)となりましたが、何の建物か知らないでねねの道を歩いていると「何の建物だろう?」となるかもしれませんね。鶴彦翁と同じように、祇園閣も評価がわかれているようですが、もしやそれも鶴彦翁は狙ってのことだったのかな?