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今日のイラストは、普光寺の山門(回廊側から) 昭和60(1985)年3月3日のスケッチ |
新潟県南魚沼市にある越後浦佐普光寺の毘沙門堂と、新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後一宮彌彦神社はどちらも伊東忠太が設計を手がけています。
この2つの建物は、以前の建造物が火災で焼失し、忠太が再建設計を行ったという共通点がります。それ以外にも、毘沙門堂と彌彦神社には忠太が関係する共通点がありました。
越後一宮彌彦神社と普光寺毘沙門堂―伊東忠太再建設計
普光寺 毘沙門堂は室町前期の建物と言われていましたが、昭和6(1931)年に火災で焼失してしまいました。
その後、昭和12(1937)年、伊東忠太の設計で再建されたのが、現在の毘沙門堂。
残念ながら焼失してしまいましたが、室町前期に建てられたという毘沙門堂は大正6(1917)年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定されていました。
そして、越後一宮彌彦神社境内末社の十柱神社社殿も同年に特別保護建造物に指定されています。
参考:文化庁 文化財オンライン 弥彦神社境内末社十柱神社社殿
また残念なことに彌彦神社(社殿)も明治45(1912)年に火災で焼失し、大正5(1916)年に伊東忠太設計で再建されています。
十柱神社社殿は火災を逃れ、大正6(1917)年の特別保護建造物に指定されました。
彌彦神社と毘沙門堂は、特別保護建造物・火災・伊東忠太設計で再建という共通点があるのです。
古社寺保存会委員としての活動
一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内にある、伊東忠太資料【野帳33】の説明文に、明治33(1900)年3~8月「内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの」と書かれています。
このとき、伊東忠太は内務省の「古社寺保存会委員」として活動していました。
明治初期、明治維新の混乱や改革で、美術品や宝物の輸出、仏像や建造物の破壊などが著しくなり、文化財が危機にさらされたのです。
これを保護するため、国は調査を行い「古器旧物」(古美術)維持修理のための保存金を公布しました。
その後、建物も維持保護するべきだという気運が高まり、古社寺の建物や宝物類を保護するための法律「古社寺保存法」が明治30(1897)年に成立します。
これに先立ち、古社寺の調査や学術的指導などを行うための諮問機関として「古社寺保存会」が明治29年に設置されています。
【野帳33】の説明文にあるように伊東忠太は、古社寺保存会の委員として日本各地を巡っていたのですね。
古社寺保存法については文部科学省のサイトに掲載されていますが、国立公文書館のサイトがわかりやすく当時の資料も見られるので、そちらのリンクを貼らせていただきます。
参考:国立公文書館 ようこそ歴史資料の宝庫へ Ⅰ歴史資料の世界③公文書の世界 15.明治時代の文化財保護政策