浦佐毘沙門堂の裸押合い祭や、毘沙門市について調べていたとき、浦佐と堀之内が三国街道の宿場だったと初めて知りました。
「
浦佐毘沙門堂の毘沙門市」の「縮の販売で堀之内とトラブル!?」
実家裏山奥方面に三国街道が通っていて、現在も散策コースになっているということも初めて知りました。
「とよじいも登っていないたかな?」と思って、イラスト在庫を調べたところ、ありましたよ~♪
三国街道の栃原峠、FM塔付近です。
※1枚の絵を2回に分けてスキャンしているため、ツギハギ部分の色が変わっています、ごめんなさい。
原画は色の変化はないので、スキャン技術とツギハギ技術を高めて、原画のままアップできるようにしたいです。
栃原峠は三国街道を堀之内宿から浦佐宿に行く途中にある峠道です。
万治元年(1658年)に、高田藩により開拓されたと言われています。
いまでも、街道の名残である、茶屋や石仏などの史跡があちこちに残っています。
首なし地蔵という、ちょっとオドロオドロしい史跡もあるようですよ。
雪が溶けたら、散策してみたいです。
余談ですが……。
三国街道途中の大峠である、群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町を越える三国峠。
こちらは、中世(鎌倉時代から安土桃山時代)ころから、存在していました。
山頂には、三国権現が祀られていますが、ここでも坂上田村麻呂が登場します!
昔、白根山の悪鬼が上野・信濃・越後の三国に飛行して悪行を繰り返していた。
そこで、坂上田村麻呂が討伐に鬼を討伐に訪れ、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請した。
浦佐毘沙門堂も807年(大同2年)に坂上田村麻呂が建立したと言われています。
東北に向かうとき、坂上田村麻呂も三国峠や三国街道を通ったのでしょうかね。
毘沙門堂と坂上田村麻呂の関係については、こちらの記事で♪
「
浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係」
さて、話を三国街道に戻します。
三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。
三国街道という名前の由来は、利根郡新治村の三国峠を通過していることからつけられたと言います。
江戸幕府にとって、三国街道は佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀を運ぶための重要なルートでした。
金銀を産出する佐渡との連絡路として、三国街道は北国街道、会津街道と並んで佐渡三道に定められていました。
街道の整備を行ったのは、江戸時代に天狗岩堰用水の延長の備前堀を手がけた、伊奈備前守忠次。
伊奈氏は代々、徳川幕府の土木をつかさどった家柄です。
幕府直轄で宿駅制が実施されたのが慶長14年。
そして、翌年15年には宿駅の制度がほぼできあがりました。
三国街道は中山道を高崎で分岐し、
金古→渋川→金井→北牧→横堀→中山→塚原→布施→
須川→相俣→吹路→長井→(三国峠)→浅貝→
二居→三俣→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→
浦佐→堀之内→川口→妙見→六日市→長岡→脇ノ町→
出雲崎→山田→寺泊と続いた道筋です。
距離にして、高崎から浅貝まで20里
浅貝から長岡まで28里
1里が約3.9kmなので、
高崎から浅貝までが78km、朝貝から長岡までが110kmくらいですね。
並足での所要日数は
江戸から高崎 3日
江戸から浅貝 5日
江戸から長岡 8日
もっと時間がかかるのかなぁ?と思っていましたが、20日ほどで江戸から長岡まで行けるのですね。
とはいえ、江戸から長岡まで歩くとしたら、現代人はもっと日数がかかりますよね、きっと。
昔の人たちは足腰強い、尊敬します!
現代人の私は、歩いて三国街道巡りは厳しいですが、車という文明の力を借りれるので(笑)
車を使って回ってみたいなと思っています♪
ここで、プチ疑問が(*^_^*)
「魚野川や信濃川が流れているんだから、船で移動すればいいんじゃないの?」
と思いますよね。実際、船での移動も行われていましたが!
川が流れる方に進めば楽ですが上るのが大変ですよね(汗)
六日町から魚野川下流には河岸場が設定され、下りの場合は船を利用することが多かったそうです。
上りは歩いたほうが楽だったようです。
金銀の運搬だけではなく、商人や武人など様々な人が三国街道を通って江戸と越後を行き来していました。
その人々の物語については、また後日。