こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天裸押合い祭り際に設置される大蝋燭です。
毘沙門堂内の四本の大きな柱の上に、蝋燭を設置します。
四本柱の蝋燭は、浦佐・長岡・小千谷・見附から奉納されるそうです。
さて、先回は毘沙門市の縮売買の件を書きました。
今日はその続きを書かせていただきます。
嘉永元年(1848年)頃、毘沙門市で縮の買取を行ったことから、堀之内との間でトラブルが起きました。
浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張り、その中で近隣から来た人から縮を買い込んだ。
【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】
菊紋入りの幕が張られていたら、うかつにその中には入れないでしょう。
時代劇の水戸黄門が持っている印籠みたいな感じかな?
なぜ普光寺に菊紋入りの幕があったのか? ということですが。
それには、文化十二年(1815年)に普光寺の住職についた弘賢が関係しています。
弘賢は毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀した人物で、
三十三番観音だけではなく、数々の行跡を残しています。
調べたところ、多聞天額毫(がくごう)も弘賢が得ています。
この方は、毘沙門天信仰に力を入れたようですね。
山門を建立する際、住職は後任の賢空に変わっていましたが、弘賢の力が影響を及ぼしていたようです。
話しを、菊紋入りの幕に戻します。
弘賢は文政三年(1820年)から文政八年(1825年)にかけて、京都嵯峨院から、菊のご紋使用許可、菊紋の幕、多聞天額毫などを得ています。
弘賢は普光寺の住職についた二年後に、新義真言宗(真言宗の宗派のひとつ)を統括する「江戸四箇寺」のひとつ「真福寺」に移り住職となります。
その後、普光寺の塔頭寺院のひとつ文殊院の住職代行につきます。
塔頭(たっちゅう)というのは、高僧の墓という意味です。
えらいお坊さんのお墓の近くに、弟子たちが小庵をたてて墓守をしていたのですが、小庵が寺として独立したものが塔頭寺院となりますが、寺院の敷地内にある別の坊をさすこともあります。
普光寺には、文殊院をはじめ千手院、花蔵院、宝授寺、地蔵院、西泉院という六箇所の寺院が存在していましたが、江戸から明治期にかけて廃絶し、現在残っているのは千手院のみとなってしまいました。
参考までに六寺院の本尊は──。
千手院⇒千手観音菩薩
文殊院⇒阿弥陀如来
法授寺⇒薬師
花蔵院⇒正観音
西泉坊⇒弥陀
地蔵院⇒地蔵
この六箇所以外にも、昔はもっと塔頭寺院が塔頭があったようです。
弘賢は普光寺の寺宝となる仏舎利、弘法大師の真蹟(しんせき:実際に書いたとされる)大般若経、足利尊氏・同義満書状などを収集し、寺に納めました。
これは、弘賢が真福寺に関係していたから行えたことだと言われています。
また、裸押合い祭で井口家が行場に掲げる毘沙門曼荼羅も、攝州本山寺の毘沙門曼荼羅を写し取り、弘賢が寺に納めたそうです。
毘沙門曼荼羅というのは、毘沙門天と毘沙門天に使える28の夜叉を描いた曼荼羅。
浦佐毘沙門堂では、山門の楼上に毘沙門天二十八使者の彫像が安置されています。
弘賢がどんなビジョンを持って、毘沙門堂や普寺光を形作ろうとしていたが気になります。
曼荼羅の絵を見ていてフト
押合い祭も人々が輪を描くわけだから、体曼荼羅とも言えるかも……と思いました。
話があちこち散乱してしまいましたね。すみません。
毎度のことか(^^;)
それはそうと
調べれば調べるほど、浦佐の毘沙門堂は興味深いと感じました。
今後も追跡調査していきたいと思います。