2017年4月24日月曜日
角田山の山野草イラスト イカリ草、雪割草、コバイモ
今日のイラストは、新潟市西蒲区の「角田山」に咲く山野草のイラストです。
角田山は登山コースが七箇所あり、初心者から熟練者まで、それぞれが登山を楽しめます。
また、春になると雪割草が咲き誇り、イラストのようにいろいろな山野草と競うように花を咲かせます。
雪割草が咲くコースは、上記七箇所のうち四箇所。
・五ケ峠登山口⇒なだらかで登りやすく、家族向け。
・灯台登山口⇒先日ご紹介した米山や佐渡が見えます。
柏崎市 米山の山野草 米山山開き登山
・浦浜登山口⇒五ヶ浜~大深山経由山頂へ至るコース。
・福井ほたるの里登山口⇒なだらかで登りやすい。登山口には「じょんのび館」があります♪
角田山の雪割草は4月上旬が見頃で、いまは散り果てのようです(汗)が、
新緑や他の山野草が咲いていると思います。
2017年3月30日木曜日
三国街道と小千谷の絵紙 魚沼の山のイラスト
今日のイラストは、三国街道近くにあるFM塔付近から魚沼の町並みを望んだイラストです。 先日、三国街道についての記事をアップさせていただきました。
⇒三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】
三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。
新潟県内は、三国峠~浦佐~堀之内~長岡~寺泊へと続きます。
堀之内や塩沢は十日町や小千谷とならんで、縮の生産が盛んでした。
三国街道を縮商人が反物を背負って越え、江戸へと出向いたわけです。
その他、長岡藩主、牧野備前内は川を上る鮭をとらえて、将軍家に毎年献上していたそうですが、三国街道を通って江戸へと献上鮭が送られていたと言います。
寛政8年(1796)8月には、村上藩主 内藤信敦の一行が参勤交代を行った際、三国街道を通っています。
江戸から明治、昭和初期の人々が足繁く通った三国街道。
旅人や商人の思いがつまった道なのでしょうね。
話しが戻りますが、
小千谷の縮商品は、江戸へと縮を売りにいった帰り、
江戸の浮世絵をお土産に買ってきたそうです。
この浮世絵を「絵紙」と言い、小千谷の人たちは壁に貼って楽しんだり、
ひな祭りの際に飾っていたそうです。
季節が終わってのお知らせとなってしまいましたが、
毎年2月~3月上旬に小千谷市では
この絵紙と雛人形を展示する催しを開催しています。
絵紙は色鮮やかで、江戸の人々のセンスのよさを感じます。
また、江戸の暮らしぶりがわかるので、見ていて楽しいです。
毎年違う絵紙が展示されているので、是非とも足を運んでほしいもの。
2017年3月29日水曜日
2017年3月26日日曜日
春近し コブシの花のイラスト
今日のイラストは、マンサクの花……と思ったのですが、
マンサクじゃないですね。
絵の下に「マンサク」と書かれているので、マンサクかと勘違いしましたが、
よくみたら「マンサクと共に」でした。
雪で折れた枝を、自宅の水彩画用のバケツの中に入れておいたところ、
マンサクと共に開花したということでした。
蕾の様子や花からみて、コブシだと思います。
とよじいが水彩画用に使っているバケツというのは、
私か妹が小学校のときに使用していた、図工用の黄色いバケツです。
3つの仕切りがある黄色いバケツを昔使っていましたよねぇ。
中に水をいれて、グルグル回して「水が落ちな~い!」と言いながら、みんなでバケツ回ししていました。
加速が足りないと、上にあげたときに水が落ちてくるケースも。
いまの図工用バケツは、水彩画用セットの中に入っていますよね。
四角いバケツで、その中に絵筆やパレット、絵の具を収納できるようになっています。
持ち運びに便利でおしゃれですが、黄色いバケツをみかけなくなったのが寂しい感じです。
2017年3月23日木曜日
春を告げる山野草 福寿草のイラスト
小学校の卒業式シーズンですね。
サクラの開花予想がされる時期となりましたが、魚沼では雪が降ったようです。
彼岸頃、再度寒くなり、温かさが増していく。
寒暖を繰り返し、魚沼は春を迎えます。
今日のイラストは福寿草。
新春を祝う花、ということで福寿草と名付けられたと言います。
花言葉も
「幸せを招く」
「永久の幸福」
とハッピーな意味合いのある山野草です。
漢方では、福寿草の根や根茎は心臓の薬とされていますが、
効能が大きいため、多量に摂取するのは逆に毒となります。
福寿草に触れたり、花の匂いを嗅いだりするのは全く問題ないので安心してください。
食べなければ問題ありません。
福寿草の芽がでたばかりの頃、フキノトウと間違えてしまうことがあるのだとか。
発芽の時期も同じころで、花が咲く前の福寿草はフキノトウとよくにているのです。
くれぐれも、間違えないように。
2017年3月14日火曜日
三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭や、毘沙門市について調べていたとき、浦佐と堀之内が三国街道の宿場だったと初めて知りました。
「浦佐毘沙門堂の毘沙門市」の「縮の販売で堀之内とトラブル!?」
実家裏山奥方面に三国街道が通っていて、現在も散策コースになっているということも初めて知りました。
「とよじいも登っていないたかな?」と思って、イラスト在庫を調べたところ、ありましたよ~♪
三国街道の栃原峠、FM塔付近です。
栃原峠は三国街道を堀之内宿から浦佐宿に行く途中にある峠道です。
万治元年(1658年)に、高田藩により開拓されたと言われています。
いまでも、街道の名残である、茶屋や石仏などの史跡があちこちに残っています。
首なし地蔵という、ちょっとオドロオドロしい史跡もあるようですよ。
雪が溶けたら、散策してみたいです。
余談ですが……。
三国街道途中の大峠である、群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町を越える三国峠。
こちらは、中世(鎌倉時代から安土桃山時代)ころから、存在していました。
山頂には、三国権現が祀られていますが、ここでも坂上田村麻呂が登場します!
昔、白根山の悪鬼が上野・信濃・越後の三国に飛行して悪行を繰り返していた。
そこで、坂上田村麻呂が討伐に鬼を討伐に訪れ、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請した。
浦佐毘沙門堂も807年(大同2年)に坂上田村麻呂が建立したと言われています。
東北に向かうとき、坂上田村麻呂も三国峠や三国街道を通ったのでしょうかね。
毘沙門堂と坂上田村麻呂の関係については、こちらの記事で♪
「浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係」
さて、話を三国街道に戻します。
三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。
三国街道という名前の由来は、利根郡新治村の三国峠を通過していることからつけられたと言います。
江戸幕府にとって、三国街道は佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀を運ぶための重要なルートでした。
金銀を産出する佐渡との連絡路として、三国街道は北国街道、会津街道と並んで佐渡三道に定められていました。
街道の整備を行ったのは、江戸時代に天狗岩堰用水の延長の備前堀を手がけた、伊奈備前守忠次。
伊奈氏は代々、徳川幕府の土木をつかさどった家柄です。
幕府直轄で宿駅制が実施されたのが慶長14年。
そして、翌年15年には宿駅の制度がほぼできあがりました。
三国街道は中山道を高崎で分岐し、
金古→渋川→金井→北牧→横堀→中山→塚原→布施→
須川→相俣→吹路→長井→(三国峠)→浅貝→
二居→三俣→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→
浦佐→堀之内→川口→妙見→六日市→長岡→脇ノ町→
出雲崎→山田→寺泊と続いた道筋です。
距離にして、高崎から浅貝まで20里
浅貝から長岡まで28里
1里が約3.9kmなので、
高崎から浅貝までが78km、朝貝から長岡までが110kmくらいですね。
並足での所要日数は
江戸から高崎 3日
江戸から浅貝 5日
江戸から長岡 8日
もっと時間がかかるのかなぁ?と思っていましたが、20日ほどで江戸から長岡まで行けるのですね。
とはいえ、江戸から長岡まで歩くとしたら、現代人はもっと日数がかかりますよね、きっと。
昔の人たちは足腰強い、尊敬します!
現代人の私は、歩いて三国街道巡りは厳しいですが、車という文明の力を借りれるので(笑)
車を使って回ってみたいなと思っています♪
ここで、プチ疑問が(*^_^*)
「魚野川や信濃川が流れているんだから、船で移動すればいいんじゃないの?」
と思いますよね。実際、船での移動も行われていましたが!
川が流れる方に進めば楽ですが上るのが大変ですよね(汗)
六日町から魚野川下流には河岸場が設定され、下りの場合は船を利用することが多かったそうです。
上りは歩いたほうが楽だったようです。
金銀の運搬だけではなく、商人や武人など様々な人が三国街道を通って江戸と越後を行き来していました。
その人々の物語については、また後日。
「浦佐毘沙門堂の毘沙門市」の「縮の販売で堀之内とトラブル!?」
実家裏山奥方面に三国街道が通っていて、現在も散策コースになっているということも初めて知りました。
「とよじいも登っていないたかな?」と思って、イラスト在庫を調べたところ、ありましたよ~♪
三国街道の栃原峠、FM塔付近です。
栃原峠は三国街道を堀之内宿から浦佐宿に行く途中にある峠道です。
万治元年(1658年)に、高田藩により開拓されたと言われています。
いまでも、街道の名残である、茶屋や石仏などの史跡があちこちに残っています。
首なし地蔵という、ちょっとオドロオドロしい史跡もあるようですよ。
雪が溶けたら、散策してみたいです。
余談ですが……。
三国街道途中の大峠である、群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町を越える三国峠。
こちらは、中世(鎌倉時代から安土桃山時代)ころから、存在していました。
山頂には、三国権現が祀られていますが、ここでも坂上田村麻呂が登場します!
昔、白根山の悪鬼が上野・信濃・越後の三国に飛行して悪行を繰り返していた。
そこで、坂上田村麻呂が討伐に鬼を討伐に訪れ、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請した。
浦佐毘沙門堂も807年(大同2年)に坂上田村麻呂が建立したと言われています。
東北に向かうとき、坂上田村麻呂も三国峠や三国街道を通ったのでしょうかね。
毘沙門堂と坂上田村麻呂の関係については、こちらの記事で♪
「浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係」
さて、話を三国街道に戻します。
三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。
三国街道という名前の由来は、利根郡新治村の三国峠を通過していることからつけられたと言います。
江戸幕府にとって、三国街道は佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀を運ぶための重要なルートでした。
金銀を産出する佐渡との連絡路として、三国街道は北国街道、会津街道と並んで佐渡三道に定められていました。
街道の整備を行ったのは、江戸時代に天狗岩堰用水の延長の備前堀を手がけた、伊奈備前守忠次。
伊奈氏は代々、徳川幕府の土木をつかさどった家柄です。
幕府直轄で宿駅制が実施されたのが慶長14年。
そして、翌年15年には宿駅の制度がほぼできあがりました。
三国街道は中山道を高崎で分岐し、
金古→渋川→金井→北牧→横堀→中山→塚原→布施→
須川→相俣→吹路→長井→(三国峠)→浅貝→
二居→三俣→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→
浦佐→堀之内→川口→妙見→六日市→長岡→脇ノ町→
出雲崎→山田→寺泊と続いた道筋です。
距離にして、高崎から浅貝まで20里
浅貝から長岡まで28里
1里が約3.9kmなので、
高崎から浅貝までが78km、朝貝から長岡までが110kmくらいですね。
並足での所要日数は
江戸から高崎 3日
江戸から浅貝 5日
江戸から長岡 8日
もっと時間がかかるのかなぁ?と思っていましたが、20日ほどで江戸から長岡まで行けるのですね。
とはいえ、江戸から長岡まで歩くとしたら、現代人はもっと日数がかかりますよね、きっと。
昔の人たちは足腰強い、尊敬します!
現代人の私は、歩いて三国街道巡りは厳しいですが、車という文明の力を借りれるので(笑)
車を使って回ってみたいなと思っています♪
ここで、プチ疑問が(*^_^*)
「魚野川や信濃川が流れているんだから、船で移動すればいいんじゃないの?」
と思いますよね。実際、船での移動も行われていましたが!
川が流れる方に進めば楽ですが上るのが大変ですよね(汗)
六日町から魚野川下流には河岸場が設定され、下りの場合は船を利用することが多かったそうです。
上りは歩いたほうが楽だったようです。
金銀の運搬だけではなく、商人や武人など様々な人が三国街道を通って江戸と越後を行き来していました。
その人々の物語については、また後日。
2017年3月3日金曜日
浦佐毘沙門堂裸押合い祭 ささら擦りについて
こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のワンシーンです。
●浦佐毘沙門堂の写真については
⇒浦佐毘沙門堂の境内【写真あり】をご参照くださいね。
さて先日、ササラ擦りのイラストをアップしました。
⇒裸押合い祭のイラスト 浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係
ササラすりというのは、祭りのクライマックスに行われる行事です。
押合いと奉納品の参献と撒与品が繰り返し行われた後、夜11時頃にササラすりが始まります。
「サンヨウ、サンヨウ」の文句に合わせ、年男がササラをすり上げます。
簓(ササラ)とは、民族芸能や祭りなどで使われる楽器のようなものをさします。
様々な形がありますが、竹の先を細かく割って茶筅のようにしたササラや玉すだれのような形をしたものがあります。
浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のササラは(上記イラストのものと形状が異なりますが)竹でできていて「擦りササラ」と「受けササラ」があり、切り込みの形状が擦りと受けで異なっています。
擦りササラは縦に13本の切れ込みがあります。
13という数字は、毘沙門天の眷属である、五大鬼神の「五」と夜叉八大将の「八」を合わせた数字です。
五大明王
・不動明王
・降三世明王
・軍茶利明王
・大威徳明王
・金剛夜叉明王
夜叉八大将(八大夜叉大将)
・宝賢夜叉
・満顕夜叉
・散支夜叉
・衆徳夜叉
・應念夜叉
・大満夜叉
・無比力夜叉
・密厳夜叉
そして、受けササラには、横に30本の刻みがされています。
天地に刻みを入れ、その中に28本の刻みをいれるということです。
毘沙門堂の山門の二階には、毘沙門天の眷属である二十八使者の像が安置されています。
この擦りササラと受けササラを十字にクロスさせ年男は真言密教を唱えながら、一年の豊作を祈願します。
ササラは内側に擦ると凶作に、外に擦ると豊作になることから、外へ外へと擦ります。
唱える呪文は他人に聞こえてはいけないので、年男は声に出して唱えません。
また、声が漏れないように、音頭取りの人たちが、音頭歌を歌っているともいわれています。
このササラは、坂西家の当主が代々、奉納する習わしとなっています。
坂西家は江戸時代に大割元役を務め、裸押合い祭では村の「重立の旦那」として尊敬された特別な家。
そして、坂西家の当主の代がかわるごとに新しいササラを作りますが、ササラをつくる竹は京都石清水八幡宮の竹を使用し、制作は普光寺の大工棟梁が行います。
できあがったササラを、坂西家の御当主が毘沙門天に奉納するわけです。
音頭取りの家も決まっていて、鈴木家が代々世襲しており、脇音頭をとるのは、分家や鈴木家に縁のある人に依頼するそうです。
鈴木家は江戸時代、大割元・坂西家の祐筆であったという伝承が残っています。
余談ですが、3月3日当日は、坂西家の御当主は「藤原の姓を名乗り」裃(かみしも)を来て、大祭に参加するとのこと。
さあ、そして。
ササラ擦りが始まると、押合いをしていた人々が、年男の周りを輪になってとりかこみます。
輪は三重四重となり、ぐるぐると年男の周りを回り、音頭取りの人々が、音頭歌を歌います。
以前は、音頭取りの人々ではなく、年男がササラを擦りながら音頭をとったと、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれています。
当月三日に年男参ったりな。
立ったこそ道理や門の松がまっさるわ。
まんがわらに手かけて春が来たとうのばら。
わいらに着しようとて白い管の笠。
黄金の花が咲く四つ隅のように。
たーむこそ道理や実が入るとうて。
立ったこそ道理や米が降るとうて。
この七つの文句を七回ずつ繰り返し、四十九回歌います。
一句一句の間に、年男の周りを回る人々が「サンヨウ、サンヨウ」と合いの手を入れます。
四十九回の歌が終わると「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられ、輪を描いていた群衆が二つに割れ、年男が人々の「来い来い来いよ」の声に導かれて、内陣に入りササラを本尊の厨子に納めます。
その後、御灰像十二体を撒与して祭りは終わります。
祭り全体が一つのストーリーになっているような感じですね。
ラストの「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」がですね……。
なぜ、浦佐は山が多いところなのに、海を描写するような文句なのかというのが謎です。
また、人波が2つに別れるというのと、ささらを厨子に納めるという行事が……。
モーセの出エジプト記と契約の箱みたい──と思いました。
そして、黄金の花が咲くというのがですね――。
年男、井口家のご先祖が「毘沙門天像を運んで浦佐にやってきた」という言い伝えもありますしね。
浪漫があるお祭りですよね。
【2019年3月追】
浦佐の裸押合い祭り、毘沙門堂が製鉄に関係があるのではないか、という民俗学の本を読みました。現在、調査中♪ネコしきが製鉄に関係ありそう。
毘沙門天は製鉄に関係しますもんね。
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