2025年9月15日月曜日

昭和62年の9月


 尾瀬

昭和62(1987)年9月のスケッチ

裏燧ヶ岳なのか、裏燧林道なのか?

2025年9月14日日曜日

昭和42年の10月


 紅、燧ヶ岳へ

昭和42(1967)年10月のスケッチ

昨日アップの昭和49(1974)年、7年後の燧ヶ岳とくらべて、どうですか?



2025年9月13日土曜日

昭和49年の9月

 


至仏山より尾瀬ヶ原と燧ヶ岳

昭和49(1974)年9月のスケッチ

山々は変わらずにいてくれる・・・?

2025年8月23日土曜日

過ぎゆく夏? ねぶた祭ハネトのイラスト

 


 残暑お見舞い申し上げます

 立秋すぎたので残暑ですが・・・

 過ぎゆく夏、ではない感じですね



2025年3月17日月曜日

便乗して八海山

 

大力山より八海山

世の中に便乗して、八海山のイラスト。

大力山より駒ヶ岳

でも、魚沼市のお酒といえば緑川。


2024年12月16日月曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その3)

大倉喜八郎の京都別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」。楼閣が今の祇園祭山鉾の形に落ち着くまでには、設計者・伊東忠太と喜八郎の対話が何度かあったようです。


奈良国立博物館 収蔵
十二神将立像

今日の写真は、奈良国立博物館収蔵の十二神将立像です。
なぜ、この写真か? というのは文内で、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」の資料を活用させていただいたから。


十二神将像
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/858-0?locale=ja)

6神写真撮影をするのを忘れてしまっていたので6神の写真をColBaseを利用して掲載。
このような感じで、今回の文章内にも浮世絵画像を掲載しました。

浮世絵に見る、風に吹かれて漏斗状になる和傘


大倉喜八郎が「漏斗状になった傘」を見たのは、上京する嘉永7(1854)年前の郷里・新発田にいた頃という説があります。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」では、上記の忠太とのやりとりの中で喜八郎が『子どものとき、雨風の強い日に使いに出されて、土手を歩いていると傘がおちょこになった』と話す描写があります。また、昭和2(1927)年「財団法人大倉集古館、祇園閣、京都大倉別邸建築記念写真帖」大倉土木株式会社には、喜八郎が子どもの頃に持っている傘が突風に吹かれて破れて逆立ちという記述があるようです(同書籍未確認)。

喜八郎幼少の頃、となると洋傘が流行る前ですので「和傘」が逆さになったのを見たと思うのですが、ここで話が逸れますが「和傘って漏斗状になるの?」という疑問が芽生えたので浮世絵を探してみました。

浮世絵を探すとき、とても便利だったのが、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」。
国立文化財機構の4つの国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)と2つの研究所(東京文化財研究所、奈良文化財研究所)の収蔵品や、皇居三の丸尚蔵館の収蔵品を検索できる横断システム。

画像を活用できるので、とってもありがたい! 早速活用させていただきました。

ColBaseの活用方法、画像利用についてはこちらのブログ記事に詳しく掲載せれています。
参考:独立行政法人国立文化財機構 文化財活用センター ブログ「ColBaseを活用しよう!ColBaseの画像利用について」

歌川国芳「百人一首之内・文屋康秀」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-5356?locale=ja)



「和傘が漏斗状になるのか?」という疑問へのアンサー浮世絵。見事に反転しています、風に吹かれて漏斗状になっていますね。傘を地面に押しつけて飛ばされないようにしているので、かなりの強風、突風だったのでしょう。

ところで、雨の日に傘をさしていて、風が強くなったら傘をすぼめる――というのが、傘が反転しない秘訣。

喜多川歌麿「江戸八景・衣紋坂乃夜の雨」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4282?locale=ja)


籠の左側にいる男性、傘をすぼめて走っています。

大倉喜八郎は幼名を鶴吉と呼ばれていたのですが鶴吉少年は「幼にして頴敏聰悟(頴悟聰敏の誤字かな?)嶄然として頭角を出して居たことは、當時人皆翁を呼んで小太閤と稱して居たことでも判る。是れ翁の面貌が豊太閤に似て居ると云ふのではなく、大膽にして小心、敏捷にして機智に富んで居たから」と書籍「大倉鶴彦翁」鶴友會発行に記されていました。

そんな鶴吉少年ですから、大切な傘を壊さないように注意してさしていたと思います。それでも、突然に突風が吹いて傘が裏返ってしまった――としたら強く印象に残りますね。

忠太が思い描いたのは和傘か洋傘か?


喜八郎の「傘が漏斗状になった建物」を造りたいという空前絶後の計画を諦めてもらうために忠太が珍妙な草案を造って見せたという話もありますが、忠太が喜八郎の依頼に本気で向き合って日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】に見る「漏斗状の傘」をモチーフにした數案を作ったかもしれません。

喜八郎にとっての「傘」は鶴吉少年時代に持っていた和傘で、忠太にとって「傘」といえば洋傘を思い浮かべたとしたら。

「傘」と聞いてイメージするものが喜八郎と忠太では違っていたのではないか、という推測。

伊東忠太の父親は長崎で医学を学び軍医となった人物で、伊東家は代々医を業としていて祖父も長崎でシーボルトに医学や蘭学を学んでいます。

洋傘は明治以前にも日本に入ってきていて、江戸時代後期文化元(1804)年の長崎で唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られ、これが現在、書物の中に見られる洋傘として特定できる最古の記録とのこと。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」より抜粋

忠太の祖父や父が洋傘を持っていたとしたら、傘といえば洋傘というイメージが強くなるかもしれません。

それから、喜八郎の向島別邸に呼ばれて「漏斗状になった傘の建物」を建てたいという話を聞いた時期について。「趣味の鶴彦翁」で忠太は『或る時』と書いていますが、喜八郎と忠太の交流は大正元(1912)年に喜八郎の向島別邸を造る際に忠太が相談を受けたころからスタートしています。そして祇園閣の工事着工は大正15(1926)年なので、「漏斗状になった傘の建物」の依頼を受けた「或る時」は大正時代と思われます。

大正といえばモダンガールがお洒落のアイテムとして洋傘を持ち歩いたとき。時代的にも「傘」というと「洋傘」というイメージが忠太の頭に浮かんだのかもしれません。

そうだとしても、依頼の思いやイメージを推測するでしょうし、それを重視するでしょうから、喜八郎が「和傘」をイメージして依頼したとわかっていながら、空前絶後の計画を諦めてもらうために珍妙な案をつくるためにあえて「洋傘」で描いた…という作戦だったのかもしれません。

まとめ


話をしていてお互い「そうそう」と言ってわかったつもりになっていても、実は違うものを頭の中では思い描いているということは往々にしてあることです。

実際は相反していてそれぞれ平行で進んでいるけれど、会話は交わっていて成り立っているように感じられる。後になって「言っていることと違うじゃん!」となる。違いに気づかず人に伝わると、まったく違う内容になってしまうなど。

忠太が絵に描いて見せたことで「漏斗状になった傘」がイメージとは違って「これはいかん」と喜八郎は言うわけですが、だからこそ次に『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』といって依頼するとき『寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明』したのでしょう。

忠太は山鉾形も実は反対だったけれど、写真を見せて詳細説明されたことで、断れなくなった…なんて記述はありません。妄想です。


あ。

「祇園閣が山鉾の形になった理由」についてですが。

昭和4(1929)年発行の大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太が寄せた「趣味の鶴彦翁」には祇園閣を建てるまでの経緯(喜八郎からの依頼、山鉾の形になるまで、二人のやりとり)が忠太視点で書かれています。

『祇園の鉾の形をそのまゝ建築化したものを造って貰ひ度い』と喜八郎から忠太は頼まれますが、その目的を喜八郎は『私の記念事業の一つとして、京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高楼を作り、京都名所の一つにするのだ』と語ったそうです。

その完成を見ることなく、大倉喜八郎は永眠してしまいます。平成9(1997)年に祇園閣は登録有形文化財(建造物)となりましたが、何の建物か知らないでねねの道を歩いていると「何の建物だろう?」となるかもしれませんね。鶴彦翁と同じように、祇園閣も評価がわかれているようですが、もしやそれも鶴彦翁は狙ってのことだったのかな?

2024年12月15日日曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その2)

京都にある祇園閣は大倉喜八郎の依頼を受けて、伊東忠太が設計した建物です。忠太に設計を依頼したとき喜八郎は「漏斗状になった傘の形」をした建物をリクエストしました。

蔵春閣ラッピングバス(左)新潟空港ロビー(左)

写真右は新潟空港ロビーにある「風味爽快ニシテ」(新潟県出身の醸造技師、中川清兵衛と札幌麦酒会社を設立した大倉喜八郎)の広告。

写真左は大倉喜八郎の向島別邸にあった「蔵春閣」が、喜八郎の生まれ故郷である新潟県新発田市の東公園内に移築され令和5(2023)年から一般公開されることになったときに走っていたラッピングバス(と雪国ならではの縦型信号機)。

蔵春閣は東京向島にある大倉喜八郎別邸に明治45【大正元】(1912)年に接客を目的として建てられた建物。この向島別邸を増築する際、喜八郎は明治建築界の巨匠である片山東熊や妻木頼黄や、後に大倉集古館や祇園閣を依頼することになる伊東忠太を呼んで相談しながら建築案を練りました。

参考:「建築工藝叢誌」第1巻第6冊(1912年7月刊 建築工芸協会)『蔵春閣建築瑣談』大倉喜八郎著

蔵春閣 外観

その後、忠太は別家で向島別邸に呼ばれ、喜八郎から空前絶後(忠太談)の注文(建築依頼)をされます。

喜八郎亡き後に発行された追悼文集に、そのときの思い出を忠太が綴っているので紹介します。

大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」について


大倉喜八郎は明治から大正にかけて建設や製鉄、貿易、繊維、食品など様々な事業や企業を興し、大倉財閥を築いた実業家です。福祉や教育、文化事業にも熱心に取り組み、明治維新後の国内発展にかかせなかった人物だと思うのですが……明治維新の頃、鉄砲店をひらいたことや軍に食糧などを供給したことから武器の商人と批判されることも多く評価が大きくわかれています。

喜八郎が昭和3(1928)年に亡くなった後、翌年の昭和4(1929)年に追悼文集「鶴翁餘影」が発行されました。

渋沢栄一や後藤新平、犬養毅(と連ねると上記の諱が「ほらね」となりそうですが)幸田露伴や尾上梅幸、高村光雲など錚々たるメンバーが喜八郎との思い出話を綴っています。

様々な人と喜八郎のやりとりや、その人たちの目線で見えた喜八郎の姿、あまり知られていない喜八郎の人柄、世間で噂となっていることが事実とは違っていることなど、当時の様子とともに描かれていて、大倉喜八郎という人物を間接的にですが知ることができる本だと思います。

じっくり時間をかけて読みたかったのですが、図書館では古書貴重本という取扱いで館内のみ閲覧可能。
国立国会図書館のデジタルコレクションになっているので登録すれば個人送信で閲覧可能ですし、図書館送信サービスに対応している図書館であれば館内での閲覧可能ができます。もちろん国立国会図書館以外で「鶴翁餘影」を所蔵している図書館はあります。気になる方は、検索してみてくださいね。

伊東忠太が寄せた追悼文「趣味の鶴彦翁」


大倉喜八郎は平安神宮や明治神宮、築地本願寺や湯島聖堂をはじめ、明治から昭和にかけて様々な建築設計を行った伊東忠太とも交流を持っていて「大倉集古館」「祇園閣」「眞葛荘」(現存する建築物)の設計を依頼しています。

先に紹介した大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太も「趣味の鶴彦翁」というタイトルで追悼文を寄せています。そこには、京都に現存している祇園祭の山鉾をかたどった望楼「祇園閣」【平成9(1997)年登録有形文化財(建造物)】を建てるまでの喜八郎とのやりとりが記されています。

ちなみに、鶴彦翁というのは大倉喜八郎の幼名が鶴吉で、趣味の狂歌で号を「鶴彦」としていたことからきていて、祇園閣の屋根上にある銅棹の頂には羽を広げた鶴が置かれ、正面入口の扉内側にも鶴があります。

祇園閣 大雲院側から望む

「趣味の鶴彦翁」によると、忠太は喜八郎から電話で呼び出されて向島別墅に行くと――
『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』と依頼を受けた。そこで傘が逆さになった建物を描いて喜八郎に見せたが「これはいかん」と言って諦められた。時間を経て再び呼ばれると次は『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』と依頼された。

そこで今の祇園閣のような形を描いてOKをもらい、計画が動き出したという経緯が書かれています。

「これはいかん」と大倉喜八郎に言わしめた「試しの數案」


日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の中にある伊東忠太が描いた漏斗状の傘の絵は洋傘に見えます。ただ、喜八郎が依頼をするときに洋傘と語っていたのかはわかりません。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」大倉雄二著には『彼(喜八郎)が伊東に頼んだのは、おちょこになった番傘を高い屋根に載せた塔であった』と書かれています。

おちょこというのは、傘が反転した様子が御猪口に似ていることから、漏斗状になった傘のことを「おちょこ」になると表現します(関西ではまったけなど、いろいろ呼び名があるようです)。

そして先ほどの文章に続いて、喜八郎に「おちょこになった番傘の建物」を諦めさせるため忠太は『珍妙な石膏模型を造って彼(喜八郎)に見せた。たぶんできるだけ格好の悪い』見ただけでおかしくなりそうなものを造って見せたと書かれています。それで喜八郎が「これはいかん」と言って諦めたと。

追悼文集「鶴翁餘影」「趣味の鶴彦翁」の中で忠太は『兎に角試しに數案を作って翁に示した』と書いていますが「おかしなものを造って見せた」とは書いていません。そこはあえて触れなかったのでしょうかね?

ただもし【野帳40】にある漏斗状の傘の建物の案が通り京都東山エリアにできていたら――今の祇園閣も斬新な建物ですから――ねぇ。