2024年12月15日日曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その2)

京都にある祇園閣は大倉喜八郎の依頼を受けて、伊東忠太が設計した建物です。忠太に設計を依頼したとき喜八郎は「漏斗状になった傘の形」をした建物をリクエストしました。

蔵春閣ラッピングバス(左)新潟空港ロビー(左)

写真右は新潟空港ロビーにある「風味爽快ニシテ」(新潟県出身の醸造技師、中川清兵衛と札幌麦酒会社を設立した大倉喜八郎)の広告。

写真左は大倉喜八郎の向島別邸にあった「蔵春閣」が、喜八郎の生まれ故郷である新潟県新発田市の東公園内に移築され令和5(2023)年から一般公開されることになったときに走っていたラッピングバス(と雪国ならではの縦型信号機)。

蔵春閣は東京向島にある大倉喜八郎別邸に明治45【大正元】(1912)年に接客を目的として建てられた建物。この向島別邸を増築する際、喜八郎は明治建築界の巨匠である片山東熊や妻木頼黄や、後に大倉集古館や祇園閣を依頼することになる伊東忠太を呼んで相談しながら建築案を練りました。

参考:「建築工藝叢誌」第1巻第6冊(1912年7月刊 建築工芸協会)『蔵春閣建築瑣談』大倉喜八郎著

蔵春閣 外観

その後、忠太は別家で向島別邸に呼ばれ、喜八郎から空前絶後(忠太談)の注文(建築依頼)をされます。

喜八郎亡き後に発行された追悼文集に、そのときの思い出を忠太が綴っているので紹介します。

大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」について


大倉喜八郎は明治から大正にかけて建設や製鉄、貿易、繊維、食品など様々な事業や企業を興し、大倉財閥を築いた実業家です。福祉や教育、文化事業にも熱心に取り組み、明治維新後の国内発展にかかせなかった人物だと思うのですが……明治維新の頃、鉄砲店をひらいたことや軍に食糧などを供給したことから武器の商人と批判されることも多く評価が大きくわかれています。

喜八郎が昭和3(1928)年に亡くなった後、翌年の昭和4(1929)年に追悼文集「鶴翁餘影」が発行されました。

渋沢栄一や後藤新平、犬養毅(と連ねると上記の諱が「ほらね」となりそうですが)幸田露伴や尾上梅幸、高村光雲など錚々たるメンバーが喜八郎との思い出話を綴っています。

様々な人と喜八郎のやりとりや、その人たちの目線で見えた喜八郎の姿、あまり知られていない喜八郎の人柄、世間で噂となっていることが事実とは違っていることなど、当時の様子とともに描かれていて、大倉喜八郎という人物を間接的にですが知ることができる本だと思います。

じっくり時間をかけて読みたかったのですが、図書館では古書貴重本という取扱いで館内のみ閲覧可能。
国立国会図書館のデジタルコレクションになっているので登録すれば個人送信で閲覧可能ですし、図書館送信サービスに対応している図書館であれば館内での閲覧可能ができます。もちろん国立国会図書館以外で「鶴翁餘影」を所蔵している図書館はあります。気になる方は、検索してみてくださいね。

伊東忠太が寄せた追悼文「趣味の鶴彦翁」


大倉喜八郎は平安神宮や明治神宮、築地本願寺や湯島聖堂をはじめ、明治から昭和にかけて様々な建築設計を行った伊東忠太とも交流を持っていて「大倉集古館」「祇園閣」「眞葛荘」(現存する建築物)の設計を依頼しています。

先に紹介した大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太も「趣味の鶴彦翁」というタイトルで追悼文を寄せています。そこには、京都に現存している祇園祭の山鉾をかたどった望楼「祇園閣」【平成9(1997)年登録有形文化財(建造物)】を建てるまでの喜八郎とのやりとりが記されています。

ちなみに、鶴彦翁というのは大倉喜八郎の幼名が鶴吉で、趣味の狂歌で号を「鶴彦」としていたことからきていて、祇園閣の屋根上にある銅棹の頂には羽を広げた鶴が置かれ、正面入口の扉内側にも鶴があります。

祇園閣 大雲院側から望む

「趣味の鶴彦翁」によると、忠太は喜八郎から電話で呼び出されて向島別墅に行くと――
『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』と依頼を受けた。そこで傘が逆さになった建物を描いて喜八郎に見せたが「これはいかん」と言って諦められた。時間を経て再び呼ばれると次は『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』と依頼された。

そこで今の祇園閣のような形を描いてOKをもらい、計画が動き出したという経緯が書かれています。

「これはいかん」と大倉喜八郎に言わしめた「試しの數案」


日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の中にある伊東忠太が描いた漏斗状の傘の絵は洋傘に見えます。ただ、喜八郎が依頼をするときに洋傘と語っていたのかはわかりません。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」大倉雄二著には『彼(喜八郎)が伊東に頼んだのは、おちょこになった番傘を高い屋根に載せた塔であった』と書かれています。

おちょこというのは、傘が反転した様子が御猪口に似ていることから、漏斗状になった傘のことを「おちょこ」になると表現します(関西ではまったけなど、いろいろ呼び名があるようです)。

そして先ほどの文章に続いて、喜八郎に「おちょこになった番傘の建物」を諦めさせるため忠太は『珍妙な石膏模型を造って彼(喜八郎)に見せた。たぶんできるだけ格好の悪い』見ただけでおかしくなりそうなものを造って見せたと書かれています。それで喜八郎が「これはいかん」と言って諦めたと。

追悼文集「鶴翁餘影」「趣味の鶴彦翁」の中で忠太は『兎に角試しに數案を作って翁に示した』と書いていますが「おかしなものを造って見せた」とは書いていません。そこはあえて触れなかったのでしょうかね?

ただもし【野帳40】にある漏斗状の傘の建物の案が通り京都東山エリアにできていたら――今の祇園閣も斬新な建物ですから――ねぇ。