2017年1月25日水曜日

幻想スケッチラフ画 タイトル:コスモゾーンへ




こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、とよじいのスケッチブックラフ画から、謎の絵です(笑)

イラストの下部に「コスモゾーン」という文字が見えますね。
コスモゾーンってなに? と思い、ネット検索してみましたよ~。

どうやら、巨匠・手塚治虫が作った言葉のようですね。

「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」というアニメ映画が、手塚先生監修により1980年に公開されています。
「コスモゾーン2772」は未確認宇宙生命体。危機に瀕した地球を救うためのカギを握ってる存在。

とよじいのスケッチは、いつ描かれたのか年月がわかりませんが「歩道橋」にてと書かれています。
歩道橋で思いついたのでしょうか? なぞ~。

先日、テレビ番組の「やりすぎ都市伝説」を観ました。
「信じるか、信じないかは、あなた次第です」のアレです。

人工知能についての紹介が……。
siriやイライザ、ゾロタクスゼイアンなどですね。
気になる方、調べてみてね~♪

「やりすぎ都市伝説」を観る前、ヒストリーチャンネルで「古代の宇宙人」シリーズを観たのですが、そこでも人工知能や、次なる人類(人類の進化)などについて描かれていました。体内にチップを埋め込んで、脳の能力を……のような話です。

人工知能や機械人間というと、映画「ターミネーター」やアニメ「銀河鉄道999」を思い浮かべ、イコール悪という認識を抱いてしまいますが、

人工知能、器械人間も人類の進化の過程なのかなぁと思いました。
どんな方向に向かっていくのか、わかりませんけど

その後、ドラえもんのCGアニメ映画「STAND BY ME ドラえもん」をチラっと見ました。
そこで、はたと気づいたのです。

トラえもんもロボットだ!

でも、私たちはドラえもんをロボットと思っていません。
「STAND BY ME ドラえもん」の中で、大人ののび太が子どもののび太に
「ドラえもんは君の子どもの頃の友達だから」というセリフがありました。

ロボットだけど、友だちなのです。

「やりすぎ都市伝説」の中でも、ゲストの的場浩司がAIについて
「ドラえもんだと思えばいいんだ」と言っていました。

これに対して、ミスター都市伝説の関暁夫が「よかったぁ!」と安堵の声を漏らしました。
関さんは、ずっと都市伝説でAIについて説明してきたけど、理解(このときの的場さんのように)してもらえなかった、といったことを言っていました。

詳しく語れないこともあり、その中で様々な説明を行っていたのだと感じます。

機械との融合やAIとの関係は、ドラえもんとのび太のようなものだと思えばいいのかな、と個人的に思いました。


はっ!

最初に手塚先生の話がでたわけですから、アトムと言うべきだったのかも(汗)

2017年1月23日月曜日

瞽女のイラスト



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、雪道をゆく瞽女さんです。

瞽女さんは、三味線や琴を弾き語りながら、各地を巡る盲目の女性芸能者のことを言います。
近年まで活躍されていた、小林ハルさんは「長岡瞽女」と呼ばれています。

私が子どものころ、冬の寒い日、瞽女さんが家を訪れたことがあります。
とよじいと清子と一緒に、瞽女さんの弾き語りを聞いたのですが、
子どもでしたからね、怖いというイメージを抱きました。

先頭の女性の肩に手を置き、その人の肩に後ろの人が手を置く。
列になり、瞽女さんは暗い雪の中を歩いて行きました。

さて、今日のイラストはツギハギだらけですが、実際はツギハギではありません。
スキャナに紙が入らず、分けてスキャンしたところ、ツギハギ状態になりました。

おしゃれかなと思って、そのまま加工せず、ツギハギでアップさせていただきました。

紙のサイズはA3×1.5ほどでしょうか?
いわゆる、大洋紙に書かれているのですが……。

大洋紙? と思った人がほとんどですよね。

新潟県民の方、大洋紙は他県では通じません。
大洋紙ではなく、模造紙です。

大きな紙ということで、新潟県では大洋紙と言います。
ちなみに、wiki先生によると、
山形県では大判紙。富山県ではガンピ。
鹿児島では広幅用紙。九州では広用紙。

など、その土地土地で呼び方が変わるようです。

詳しくは⇒゛模造紙”の呼び方で出身地がわかる

共通語や共通の風習だと思っていたら「違うの!?」
と気付いたときのカルチャーショックっていったらねぇ、アナタ。

今年の夏、平等院に行ったとき、お正月のお焚き上げでスルメを焼くのは新潟だけだって知ってビックリでしたよ。

「なんで、平等院とスルメが結びつく!?」のかについては、機会があったらお話しさせていただきますねぇ。

2017年1月22日日曜日

八海山のイラスト 折立温泉遊歩道から望む八海山

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、折立温泉遊歩道から望む、八海山です。

折立温泉遊歩道は、魚沼市の下折立付近にある散策路です。
折立釈迦堂へと繋がる階段を登り遊歩道へと入ります。
標高475mの小高い丘からは、八海山や駒ヶ岳が眺望できます。
U字を描くように丘を散策し、諏訪神社裏にある下折立農村公園にでます。

遊歩道終点付近に「大久保のブナ林」というところがありますが、
こちら、新潟県のブナ林100選に選ばれていますよ。

下折立で調べていましたら「下折立の百八灯雪まつり」の写真を見つけました。



折立温泉「百八灯」

毎年3月の第一日曜日に、山の尾根に108の篝火が並ぶそうです。

これ、とよじいがイラスト描いていました!
お正月に帰郷したとき、とよじいの部屋をあさっていたとき、
祭りのイラストの中から出てきたのです。

「この祭り、しらねぇろう(知らないだろう)」と、とよじい自慢げに言っていました!

稲荷大明神に無病息災、五穀豊穣を祈願して、尾根に108の篝火を並べるそうです。
江戸時代から続く伝統行事。幻想的なお祭りですねぇ。
2017年3月第一日曜日だと、3月5日ですね。

「百八灯」のイラストは、後日アップしますね♪

2017年1月21日土曜日

八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、八海山ロープウェー麓駅から望む、八海山。

とよじいは、イラスト内に「山口ゴンドラ場」と書いてありますが、
八海山ロープウェーの登り口です。

麓駅の住所が「山口」で、ロープウェーの前は4人乗りのゴンドラが運行されていたのです。

八海山ロープウェイは、山麓駅から4合目(山頂駅)まで運行しています。
山頂駅まで5分ほどで到着します。
四季それぞれの山の様子がパノラマで楽しめます。

ロープウェイを利用することで、八海山への登山時間が短縮できます。
とはいえ、八海山山頂の八ツ峰は登山素人が挑むには難しい場所。
アップダウン&鎖場続きで、かなりの難所です。
大日岳までの征服コースは上級者向けで、ロープウェーを使って往復6時間以上かかるようです。

八海山ロープウェイは1983年から2001年まで、4人乗りのゴンドラが運行していました。
風に弱く、運休することが多かったそうですが、現在は運休が少なくなったそうです。

八海山ロープウェイの運行は4月から11月。
朝8時ころから夕方の4時頃まで行き来しています。

今は冬でお休みですが、春になったら新緑が綺麗ですよ。
カタクリ群生地があり、4月下旬から5月上旬までカタクリの花が楽しめます。

山頂駅付近には、展望台や展望デッキもあり、周囲の景色が望めます。
パターゴルフや渓流広場など、レジャーを楽しむ施設も。

八海山山頂までの登山だけではなく、景観や自然を楽しむことができますよ。
春になったら、八海山ロープウェーに乗ってみようかな♪

2017年1月20日金曜日

権現堂のイラスト 権現堂の弥三郎バサ

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、権現堂山から望む「八海山」です。

権現堂、権現堂とよく、とよじいが言っているのですが、
権現堂山は上権現堂と下権現堂とにわかれているのですね。

この山は、弥三郎バサが住んでいる山ではないか!

「悪い子になると、権現堂から弥三郎バサがくる」
子どもの頃に、言われた方も多いのではないでしょうかね。

弥三郎バサがなにものかわからず、恐怖心だけが余計につのるというね。

弥三郎バサの民話は、じつは悲しい物語なのです。

弥三郎という猟師と妻、息子が暮らしていましたが、
弥三郎は雪山に猟に向かい戻ってこなかった。
その息子も猟師になったが、猟から戻ってこなかった。
息子の嫁は悲しみのあまり後を追って死に、
残された乳飲み子を、弥三郎の妻が育てていた。

弥三郎の妻は、孫のために近隣に乳をもらいあるいたが、
最初同情していた村人たちも、しだいに弥三郎の妻をうとましがるようになり、
猟師という職業から殺生による罰とののりし、村八分にされた。

孫は餓死し、弥三郎の妻は鬼と化し、人の子をさらって食らうようになった。
のちに、えらいお坊さんに諭され、弥三郎バサは改心し、
妙多羅天女という名を授かった。

wiki先生によると、 妙多羅天女というのは、
神仏、善人、子供の守護者で、悪霊退散の神。
縁結びの神様でもあるそうです。

新潟県とお隣の山形県で祀られている神様ということ。

弥彦神社に隣接して、 妙多羅天女が祀られているそうですね。

弥三郎バサの伝説は様々あるようで。
猫が弥三郎バサを食って、弥三郎バサになりすましたというものもあります。

弥三郎バサよりも、弥三郎という人物のほうがキーマンかもしれません。

織田信長に小姓として仕えていた、加藤弥三郎という武将がいます。
鎌倉時代の武士、 鳥海弥三郎という方もいますね。

伊吹山(滋賀県)に住んでいた大男、伊吹弥三郎の伝説もありますね。
伊吹弥三郎は富士山を作ったとか!

弥三郎という名前、ポピュラーだったようですね。
かっこいい名前だったのかな、流行の名前。

2017年1月19日木曜日

八海山大崎火渡り大祭のイラスト





こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、八海山大崎の火渡り大祭です。
毎年、10月20日に開催されます。

大寒の寒修行の時期に、季節外れのイラストアップですが、お許しを~。

火渡り大祭が行われる八海山尊神社では、
1月28日から2月3日の節分まで、行者のかたが瀧に打たれ、胡麻祈祷を行い
厳しい修行を通じての祈念が行われます。

満願の日が節分祭となり、
さまざまな福物がまかれます。

節分祭は昼の部、夜の部の2回開催されます。

詳しくは、八海山尊神社のHPをご覧ください♪

2017年1月16日月曜日

八海山信仰と十二山神社の関係性 八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。

今日のイラストは、大力山から望む「八海山」です。


先日「山の神の日はなぜ12日なのか?
この中で、魚沼地方に十二山神社が多く、その理由は八海山と八海山を訪れた修験者が関係していると書きました。

南魚沼地方に位置する「八海山」は、木曾御嶽信仰の霊山です。
「なんで、木曾御嶽?」と思われますよね。

それは!

八海山を開山したのが、木曾御嶽山を開山した普寛だからです。
八海山麓に住んでいた泰賢を弟子にして、一緒に八海山を開山したと言います。

808年に空海が登り、8つの池があったので八海山と名付けたという伝承もあります。

この八海山の本地仏は薬師如来ですが、木曾御嶽信仰の霊山ともされていて、
八海山大頭羅神王が鎮座する山としても信仰されています。

行者の活動にともない、八海山が霊山として人々の間に広まり、
山の麓にある神社も増えて行きます。

東洋大学ライフデザイン学部健康スポーツ学科、菊池章太教授の研究レポート「十二山ノ神の信仰と祖霊観」に、なぜ「十二」なのかという考察が書かれています。

十二山ノ神は薬師如来の眷属である十二神将や、熊野十二所権現と関係があるのではないか、という説があるそうです。ここに、行者や修験者たちが関わっているのではないかと、先生は推測されています。

八海山の本地仏は薬師如来。薬師如来の眷属は十二神将。
行者が八海山信仰を広めた。

そして、新潟県には十二山神社、十二神社が多い。


木曾御嶽山信仰では、霊神碑という石の石碑を建てる習俗があります。
亡くなった方の霊神碑を建立するのですが、この際、霊神号というものが与えられます。

八海山にも、この霊神碑が多く見られますよ。
霊神碑には、霊神名が刻まれていますが、建立者の氏名や出身地が彫り込まれていることがあるそうです。
建立者の出身地は様々で、新潟県以外の人や長岡市周辺や上越、新潟市という文字も見られます。
このことから、八海山信仰が、新潟県内外に広まっているということがわかります。

菊池先生は、自然災害の多い土地は、山ノ神を祀り、祭礼の際に唱えごとをしていたとおっしゃっています。
祭礼の際に、厄除けの呪言が目立っていて、そこに、修験者が関与しているのではないかというのです。

八海山信仰と十二山神社の流れ、関係性がありそうですね。

菊池先生は
「十二というのは具体的な数を意味するのではなく、むしろ極まった数の観念として神威の大きさを表しているようにも思える」と書かれています。

人々が昔から、自然を恐れ敬っていたことが、極まった数である十二という数字に表れているのかもしれませんね。

2017年1月14日土曜日

八海山のイラスト 黒禿ノ道から望む八海山

八海山
Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。
雪がすごくて、朝から除雪でヘロヘロです。



過去記事、「カマキリは大雪は予想するのか!?」でも書いたのですが、ナンテンやナナカマドの実が多くつくと、大雪になると言われています。

うちのナンテンはあまり実がつきませんでしたが、お隣のナンテンは見事にたくさんの実がついています。

植物の大雪予想、当たるのかもしれませんね。

この雪、明日も続くようです。
どんげふるんだよ!
ちょっと落ち着いてほしいです。


さて、今日のイラストは黒禿の道から望む「八海山」です。
またでた、黒禿ノ頭。
「どこですか?」と思って地図を見ましたら、笠倉山の手前にあるようですね。

等高線的には笠倉山に入っているような……でも違うか。
佐梨川と水無川の間に、隆起した山々があるわけですな。

で、佐梨川と水無川の間にある山々の尾根をつたって越後駒ヶ岳へと行くわけですかね。
駒ヶ岳から中ノ岳、兎岳へと向かう。

はっ!

地図を見ていて、いま気づきました。
山の山頂が県境になっている! すごい! と、今更気づくアホの子です。
さらに、川も山と山の間を走っている。川のスタート地点も山から。
そして平地になったところに、町が存在する。

風水で気の流れを読むとはよくいったものですね。
山や川の位置を把握して、風の流れなどを読んだのでしょうね。

土地の名前や山の名前にも、その場所の環境や特徴などが潜んでいる場合があります。
「黒禿」という名前も気になりますが、由来はいまのところわかりません←さとうがわかっていないという意味。

黒く禿げてみえる山なのでしょうかね。
黒く禿げるって、どんな風なんじゃ!?

2017年1月13日金曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 山の神の日はなぜ12日なのか?

越後駒ヶ岳

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
いやぁ、ガッツリ雪が降りましたね。
先週の雪見展のときは、積雪がほとんどなかったのですが、ここ1日~2日で1m超えの積雪。ビックリです。

今日のイラストは、黒禿の頭ルートから望む「越後駒ヶ岳」です。
黒禿の頭ルートって……すごい名前ですよね。
黒禿の頭は魚沼市の旧小出町にある772mの山です。

さて、昨日は山の神の日でしたね。
12月12日も山の神の日ですが、1月12日も山の神の日。

山の神に関する記事はこちら。

12月12日は、山の神の日
大山祇神の元に送り返された磐長姫はどうしたのでしょうか?


その土地土地により、山の神の日が違っているようですね。

ただ「12日」という日にちがキーになっています。
なぜ、山の神の日は12日なのか?
「12」という数字にどのような意味があるのか?

じつは、昨日の記事で上田銀山について書いたのですが、銀山の採鉱がスタートした後、
採掘場付近に十二山神社が設けられたそうです。

ちなみに、樹海ラインから銀山に向かう途中、上折立付近にある十二山神社には、坑道で事故にあった方々の供養塔があるそうです。

この、十二山神社(もしくは、十二神社)は全国各地に存在しているようですが(600余)
そのうちの70%が新潟県に存在しているということです。
ちなみに、新潟県は日本で一番、神社の数が多い県です。

新潟県でもとくに、魚沼地方に十二山神社は多く存在していると言います。
近世になって合併などで名前は変わったけれど、元は十二山神社だったという神社もあるそうです。
明神社、権現社、諏訪神社に合祀されたようですね。

十二山神社は「山」の文字がつくことからもわかるように、山の神を祀っています。
十二山神社が存在する場所も、山の麓がほとんどです。

ではなぜ、十二という数字がでてくるのか?

岩手県九戸郡山形村には「山の神は女性で、一年に十二の子を産む」という伝承が残っています。
この、子どもを産む日が毎月12日と決まっているといいます。

山の神が出産する日が「12日」であるため、狩猟をおこなうマタギの人たちは
12日を山の神の日として、信奉し入山を禁止していたそうです。

12月12日は、一年のうちの「しまいの山の日」。
 1月12日は、一年のうちの「はじまりの山の日」として、山の神の日のなかでも、神聖な日なのです。
山小屋などで十二人が座すのはよくないとして、木の人形を作って山中の祠に置いておくという風習もあるようですよ。

1月12日は、山の神に12個の餅を備えるそうです。
ただし、おさがりの餅を女性は食べてはいけないと言います。
子どもが授からなかったり、不作になったりするからだそうです。
その日(12日)以外に、食べると多産や豊作に恵まれるそうですよ♪

しかしなぜ「12」という数字が神聖な日とされたのでしょうか?

一年十二カ月、十二支、十二神将……。

魚沼地方で十二山神社が多い理由としては、八海山と八海山を訪れた修験者が関係しているようですよ。
山の神の日が12日というのも、修験者に関係があるようです。

長くなったので、今日はここまで(話を引っ張るよぉ~♪)続きは後日。

2017年1月12日木曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 骨投沢の言い伝えを生み出した商人「河村瑞賢」

越後駒ヶ岳

今日のイラストは、八海山から望む「越後駒ヶ岳」です。

昨日、骨投沢の話を書かせて頂きました。
枝折峠を超えてはならぬ~骨投沢
銀山から採掘した銀を不正に持ち出させるのを阻止するため
(骨箱に入れて、里に持ち出そうとした人がいたので)
銀山を管理していた河村瑞賢は
「遺体や遺骨を、その沢を越えて持ち出そうとすると、明神様の祟りがある」
といういわれを作ったと言います。
その沢でみんなが骨を投げて行くので、骨投沢という名前がついたとのこと。

河村さん、なかなかのやり手です。

では、河村瑞賢とはどのような人物だったのでしょうか?
河村瑞賢は江戸時代の商人で、材木屋を営んでいました。

明暦の大火後、木曾福島の材木を買占め、土木建築を請負い、利益を得たといいます。
明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われています。

お寺の小姓に一目ぼれをした梅乃が、彼に恋い焦がれるまま亡くなってしまう。
娘を憐れんだ両親が、娘が愛した振袖を娘の棺にかけてやる。この振袖が転売され、それを買った娘が無くなり、また振袖が棺にかけられ転売される……それを何度か繰り返す。
振袖に因縁を感じ、寺の住職が焼いて供養をしようとすると、にわかに風が吹き火のついた振袖が舞い上がる。

というような伝説があり、小泉八雲(池田美術館の常設展にゆかりの品が展示されている、ラフカディオ・ハーンさんですよ~♪)も小説として物語を描いています。
ただ、作り話という説があり、放火が原因という説もあります。

話しを、河村さんに戻しましょう。
やり手の河村さんは、幕府に見込まれ、公共事業に関わるようになります。
江戸廻りの東廻り航路や、日本海沿岸から瀬戸内海を廻り江戸に入る西廻海運を確立しています。
そのほか、淀川や木津川の治水工事なども手掛けています。

魚沼の人は「銀山」という名称で呼んでいますが、正式名称は「上田銀山」と言います。
高田藩管轄の銀山が「上田銀山」会津藩側の銀山が「白峯(しらぶ)銀山」という名称で、
この二つを合わせて、大福銀山と呼んでいたそうです。
ちなみに、白峯銀山のほうが後から発見されました。

河村さんは、高田と会津両方の大福銀山の管理を行っていました。
全国各地で築港、治水、開拓、採掘などを手掛けた、現在で言うと土木のエキスパートと言える人物ですね。
晩年は松尾芭蕉と交流していたそうですよ。
元禄12年に83歳で天寿を全うしたと言いますが、当時の人にしてみると、かなりの長生きですよね。
足を使って動いたのが長生きの秘訣でしょうか?

河村瑞賢さん。商人&土木、あと他にもなにかありそうな方ですね。

2017年1月11日水曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 枝折峠を越えてはならぬ~骨投沢

駒の湯





今日のイラストは「越後駒ヶ岳」。駒の湯からの風景です。

年始に魚沼に帰郷したとき、とよじいに銀山のことを質問してみました。

銀山は昔、銀の採掘がおこなわれていたそうですが、
掘削しすぎて、河川の底を打ちぬいたため、川水が坑道内に入り込み
多数の死者をだし、以後、採掘が下火になっていったということです。

採掘した銀を麓まで運ぶための道が「銀の道」でした。

この採掘した銀を、自分の物にしようとしなかったのだろうか?
湯之谷付近で、銀細工などの店がなかったのだろうか?

と、以前、妹たちと話をしていたのです。
銀の工芸品などが魚沼に伝承されていないのが不思議だねと。

でも、一般人が銀を使うことなど、当時の幕府は許さなかったのでしょうね。
銀の持ち出し、持ち逃げは重い罪がかせられたようです。

銀を持ち出した者に石を抱かせ、拷問した場所が、銀山平のトンネル近くにある「石抱き」です。

そして、銀の道付近に「骨投沢」という沢があります。
この沢を越えるときは、親の骨も置いていかなければいけないという言い伝えがあったと
とよじいが言っていました。

遺骨を持って里に下りると言って、骨箱に銀を隠し持っていた人がいたそうです。
そこで、骨を持って沢を越えると、大明神がお怒りになり、祟りや罰が当たるという話しを
幕府の役人が作り出したと言います。
昔の人たちはそれを信じ、後世まで遺骨や遺体を持ち出さなかったそうです。

このいわれが迷信だと証明するため、近世になってからですが、
亡くなった親を(遺骨だったかな?)抱えて
骨投沢を越えた方がいらっしゃったと、とよじいが話してくれました。
もう一回、詳しく聞いてきますね。

その方の行動で、やっとみなさん、祟りはないのだと理解したということです。

とよじい、酔っ払っていたので、真偽のほどが定かではありませんので、
骨投沢については、要検証です。

2017年1月10日火曜日

八海山とまんさくのイラスト 雪見展ありがとうございました

八海山とまんさく

1月8日9日と池田美術館で「雪見展」が開催されました。
魚沼工房もengelightと共に参加させていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。

ブースに遊びに来てくださった方々、スタッフのみなさま、出店者のみなさま、池田美術館のみなさま、お世話になり、ありがとうございました!

池田美術館は本当に居心地が良い空間で、そこにいるだけで心がホッとします。
景色もすばらしく、魚沼の山々に包まれているようで安心できます。

また来年も、ぜひ参加させていただきたいと願っております。

雪見展では、とよじいの昔の絵を絵葉書とさせてもらいました。
とよじいは幸い(?)勤務で家に戻ってこなかったので(今回、私は会えなかったです)
出典作品を見て怒られることはありませんでした。

ブログにアップした2017年カレンダーは、使用した絵がいかんといってNGが出たので。
山の特徴をつかんだ方向があり、そこを描いた絵でなければダメだということでした。

登山がお好きな方から、山のお話を聞かせていただけて、嬉しかったです。
今年は、山に関する知識や土地に関する知識、文化などをさらに探っていきたいと思いました。

あらためて、2017年も魚沼工房(とよじいも)よろしくお願いいたします。

2017年1月5日木曜日

学問の神様「菅原道真」と「綾子舞」の関係



こんにちは。
お休みは今日まで明日から学校~。という人も多いかな?
宿題終わりましたか? 受験シーズンでもありますね。
なにかに打ち込むっていいですよね。うん、本当に。

変な前置きで、すみません。

今日のイラストは、柏崎市に伝わる伝統芸能「綾子舞」です。

上杉房能の奥方、綾子によって伝えられたといわれている踊りです。

房能は上杉謙信の父である、長尾為景に討たれました。上杉さんちと長尾さんちは、お家騒動というか、身内で争っていた時期があります。
房能は上杉謙信のおじいちゃん長尾能景の「能」の字を名前にもらったわけですが、上杉謙信のお父さん長尾能景は、房能の子ども(養子)定実を味方につけ、房能に反旗を翻します。

追いつめられた房能は、松之山の天水越で自害し、その弔い塚が存在しています。

綾子舞の伝承説には、菅原道真が巫女の文子に憑依し「北野の地に我をまつれ」という託宣があり、その舞を武士、北国武太夫が伝えたという一説もあります。

房能の奥方「綾子」も都から来た白拍子であったようです。

京の都から佐渡に至る、糸魚川・柏崎・佐渡というルートが存在していて、その地点地点に都の文化がもたらされているようです。

香川県まんのう町にも「綾子踊」というものが伝承されているそうです。こちらは、雨乞いの踊り。
女性が舞うのではなく、男性が女装して舞を奉納するといいます。

綾子踊には関係していませんが、888年に菅原道真が城山神社に籠り雨乞いの祈祷をしていますよ。

柏崎の綾子舞は高原田と下野と2つの座元があります。とよじいのイラストは下野の綾子舞かな、衣装を見ると。
高原田の衣装は、まんのう町の綾子踊の衣装と似ているところがあるような気がします。
高原田の「小切子踊」は、道真が九州に左遷される前、都七条坊門の娘「文」が夢のお告げにより、三条大橋のたもとで道真を見送って踊った踊りだそうです。

綾子と道真が関係しているのかなぁ、と調べてみたところ、道真の乳母が文子(あやこ)さんでした。
多治比文子が道真を祀ったことが始まりの「文子天満宮」が京都にありました。
文子さんは、乳母ではなく巫女という説もあるようですね。

全国各地で「天神様」として菅原道真が祀られていますが、舞の伝承と共に広まっていったのかもしれませんね。

2017年1月4日水曜日

佐渡の鬼太鼓 佐渡ののろま人形のイラスト 「の」が多い(*^_^*)

こんにちは。今日から仕事初めという方も多いと思います。
いよいよ、一年が動き出すという感じですよね。
2017年、どんな年になるのでしょうか。

今日のイラストは「佐渡島」の鬼太鼓とのろま人形です。

鬼太鼓のほうは、油絵を写真に撮ったものをスキャンしました。
のろま人形はクレパスかな?

個人的に今年、佐渡に行ってみたいなと思います。
薪能とか見てみたいです。


2017年1月3日火曜日

相馬野馬追のイラスト

こんにちは!
みなさん、初夢はどんな夢を見ましたか?
お正月三が日も今日で終わり。
早いですねぇ…。

早い! ということで、今日のイラストは「相馬野馬追」。
かっこいいですねぇ。

起源は相馬氏の始祖である、平将門にはじまると言われています。
野馬を放して、馬を追い生け捕ることで、戦いの訓練をしていた

野馬追で着用する甲冑の中には、先祖伝来のものもあるそうです。
見てみたいですね!


2017年1月1日日曜日

一村尾 若宮八幡宮 十五夜大祭 太太神楽

あけまして、おめでとうございます!
2017年も、よろしくお願いいたします(*^_^*)

2017年元日のイラストは、南魚沼市薮神地区の一村尾で行われる由緒あるお祭り
「若宮八幡宮 十五夜大祭」の太太神楽です。

江戸時代宝暦年間の頃より、一村尾に伝わる御神楽で、32面の面を使い、26座の神楽舞が奉納されます。
32面のうち27面は、日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次(1836~1882)の手によるもの。
南魚沼市指定無形文化財でございます。

昔は、舞と配役が決まっていたそうですが、今は村の人たちが協力して伝承に努めているそうです。
ずっと残していただきたい伝統ですね。