2024年12月16日月曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その3)

大倉喜八郎の京都別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」。楼閣が今の祇園祭山鉾の形に落ち着くまでには、設計者・伊東忠太と喜八郎の対話が何度かあったようです。


奈良国立博物館 収蔵
十二神将立像

今日の写真は、奈良国立博物館収蔵の十二神将立像です。
なぜ、この写真か? というのは文内で、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」の資料を活用させていただいたから。


十二神将像
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/858-0?locale=ja)

6神写真撮影をするのを忘れてしまっていたので6神の写真をColBaseを利用して掲載。
このような感じで、今回の文章内にも浮世絵画像を掲載しました。

浮世絵に見る、風に吹かれて漏斗状になる和傘


大倉喜八郎が「漏斗状になった傘」を見たのは、上京する嘉永7(1854)年前の郷里・新発田にいた頃という説があります。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」では、上記の忠太とのやりとりの中で喜八郎が『子どものとき、雨風の強い日に使いに出されて、土手を歩いていると傘がおちょこになった』と話す描写があります。また、昭和2(1927)年「財団法人大倉集古館、祇園閣、京都大倉別邸建築記念写真帖」大倉土木株式会社には、喜八郎が子どもの頃に持っている傘が突風に吹かれて破れて逆立ちという記述があるようです(同書籍未確認)。

喜八郎幼少の頃、となると洋傘が流行る前ですので「和傘」が逆さになったのを見たと思うのですが、ここで話が逸れますが「和傘って漏斗状になるの?」という疑問が芽生えたので浮世絵を探してみました。

浮世絵を探すとき、とても便利だったのが、国立文化財機構所蔵品統合検索システム「ColBase」。
国立文化財機構の4つの国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)と2つの研究所(東京文化財研究所、奈良文化財研究所)の収蔵品や、皇居三の丸尚蔵館の収蔵品を検索できる横断システム。

画像を活用できるので、とってもありがたい! 早速活用させていただきました。

ColBaseの活用方法、画像利用についてはこちらのブログ記事に詳しく掲載せれています。
参考:独立行政法人国立文化財機構 文化財活用センター ブログ「ColBaseを活用しよう!ColBaseの画像利用について」

歌川国芳「百人一首之内・文屋康秀」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-5356?locale=ja)



「和傘が漏斗状になるのか?」という疑問へのアンサー浮世絵。見事に反転しています、風に吹かれて漏斗状になっていますね。傘を地面に押しつけて飛ばされないようにしているので、かなりの強風、突風だったのでしょう。

ところで、雨の日に傘をさしていて、風が強くなったら傘をすぼめる――というのが、傘が反転しない秘訣。

喜多川歌麿「江戸八景・衣紋坂乃夜の雨」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4282?locale=ja)


籠の左側にいる男性、傘をすぼめて走っています。

大倉喜八郎は幼名を鶴吉と呼ばれていたのですが鶴吉少年は「幼にして頴敏聰悟(頴悟聰敏の誤字かな?)嶄然として頭角を出して居たことは、當時人皆翁を呼んで小太閤と稱して居たことでも判る。是れ翁の面貌が豊太閤に似て居ると云ふのではなく、大膽にして小心、敏捷にして機智に富んで居たから」と書籍「大倉鶴彦翁」鶴友會発行に記されていました。

そんな鶴吉少年ですから、大切な傘を壊さないように注意してさしていたと思います。それでも、突然に突風が吹いて傘が裏返ってしまった――としたら強く印象に残りますね。

忠太が思い描いたのは和傘か洋傘か?


喜八郎の「傘が漏斗状になった建物」を造りたいという空前絶後の計画を諦めてもらうために忠太が珍妙な草案を造って見せたという話もありますが、忠太が喜八郎の依頼に本気で向き合って日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】に見る「漏斗状の傘」をモチーフにした數案を作ったかもしれません。

喜八郎にとっての「傘」は鶴吉少年時代に持っていた和傘で、忠太にとって「傘」といえば洋傘を思い浮かべたとしたら。

「傘」と聞いてイメージするものが喜八郎と忠太では違っていたのではないか、という推測。

伊東忠太の父親は長崎で医学を学び軍医となった人物で、伊東家は代々医を業としていて祖父も長崎でシーボルトに医学や蘭学を学んでいます。

洋傘は明治以前にも日本に入ってきていて、江戸時代後期文化元(1804)年の長崎で唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られ、これが現在、書物の中に見られる洋傘として特定できる最古の記録とのこと。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」より抜粋

忠太の祖父や父が洋傘を持っていたとしたら、傘といえば洋傘というイメージが強くなるかもしれません。

それから、喜八郎の向島別邸に呼ばれて「漏斗状になった傘の建物」を建てたいという話を聞いた時期について。「趣味の鶴彦翁」で忠太は『或る時』と書いていますが、喜八郎と忠太の交流は大正元(1912)年に喜八郎の向島別邸を造る際に忠太が相談を受けたころからスタートしています。そして祇園閣の工事着工は大正15(1926)年なので、「漏斗状になった傘の建物」の依頼を受けた「或る時」は大正時代と思われます。

大正といえばモダンガールがお洒落のアイテムとして洋傘を持ち歩いたとき。時代的にも「傘」というと「洋傘」というイメージが忠太の頭に浮かんだのかもしれません。

そうだとしても、依頼の思いやイメージを推測するでしょうし、それを重視するでしょうから、喜八郎が「和傘」をイメージして依頼したとわかっていながら、空前絶後の計画を諦めてもらうために珍妙な案をつくるためにあえて「洋傘」で描いた…という作戦だったのかもしれません。

まとめ


話をしていてお互い「そうそう」と言ってわかったつもりになっていても、実は違うものを頭の中では思い描いているということは往々にしてあることです。

実際は相反していてそれぞれ平行で進んでいるけれど、会話は交わっていて成り立っているように感じられる。後になって「言っていることと違うじゃん!」となる。違いに気づかず人に伝わると、まったく違う内容になってしまうなど。

忠太が絵に描いて見せたことで「漏斗状になった傘」がイメージとは違って「これはいかん」と喜八郎は言うわけですが、だからこそ次に『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』といって依頼するとき『寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明』したのでしょう。

忠太は山鉾形も実は反対だったけれど、写真を見せて詳細説明されたことで、断れなくなった…なんて記述はありません。妄想です。


あ。

「祇園閣が山鉾の形になった理由」についてですが。

昭和4(1929)年発行の大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太が寄せた「趣味の鶴彦翁」には祇園閣を建てるまでの経緯(喜八郎からの依頼、山鉾の形になるまで、二人のやりとり)が忠太視点で書かれています。

『祇園の鉾の形をそのまゝ建築化したものを造って貰ひ度い』と喜八郎から忠太は頼まれますが、その目的を喜八郎は『私の記念事業の一つとして、京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高楼を作り、京都名所の一つにするのだ』と語ったそうです。

その完成を見ることなく、大倉喜八郎は永眠してしまいます。平成9(1997)年に祇園閣は登録有形文化財(建造物)となりましたが、何の建物か知らないでねねの道を歩いていると「何の建物だろう?」となるかもしれませんね。鶴彦翁と同じように、祇園閣も評価がわかれているようですが、もしやそれも鶴彦翁は狙ってのことだったのかな?

2024年12月15日日曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その2)

京都にある祇園閣は大倉喜八郎の依頼を受けて、伊東忠太が設計した建物です。忠太に設計を依頼したとき喜八郎は「漏斗状になった傘の形」をした建物をリクエストしました。

蔵春閣ラッピングバス(左)新潟空港ロビー(左)

写真右は新潟空港ロビーにある「風味爽快ニシテ」(新潟県出身の醸造技師、中川清兵衛と札幌麦酒会社を設立した大倉喜八郎)の広告。

写真左は大倉喜八郎の向島別邸にあった「蔵春閣」が、喜八郎の生まれ故郷である新潟県新発田市の東公園内に移築され令和5(2023)年から一般公開されることになったときに走っていたラッピングバス(と雪国ならではの縦型信号機)。

蔵春閣は東京向島にある大倉喜八郎別邸に明治45【大正元】(1912)年に接客を目的として建てられた建物。この向島別邸を増築する際、喜八郎は明治建築界の巨匠である片山東熊や妻木頼黄や、後に大倉集古館や祇園閣を依頼することになる伊東忠太を呼んで相談しながら建築案を練りました。

参考:「建築工藝叢誌」第1巻第6冊(1912年7月刊 建築工芸協会)『蔵春閣建築瑣談』大倉喜八郎著

蔵春閣 外観

その後、忠太は別家で向島別邸に呼ばれ、喜八郎から空前絶後(忠太談)の注文(建築依頼)をされます。

喜八郎亡き後に発行された追悼文集に、そのときの思い出を忠太が綴っているので紹介します。

大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」について


大倉喜八郎は明治から大正にかけて建設や製鉄、貿易、繊維、食品など様々な事業や企業を興し、大倉財閥を築いた実業家です。福祉や教育、文化事業にも熱心に取り組み、明治維新後の国内発展にかかせなかった人物だと思うのですが……明治維新の頃、鉄砲店をひらいたことや軍に食糧などを供給したことから武器の商人と批判されることも多く評価が大きくわかれています。

喜八郎が昭和3(1928)年に亡くなった後、翌年の昭和4(1929)年に追悼文集「鶴翁餘影」が発行されました。

渋沢栄一や後藤新平、犬養毅(と連ねると上記の諱が「ほらね」となりそうですが)幸田露伴や尾上梅幸、高村光雲など錚々たるメンバーが喜八郎との思い出話を綴っています。

様々な人と喜八郎のやりとりや、その人たちの目線で見えた喜八郎の姿、あまり知られていない喜八郎の人柄、世間で噂となっていることが事実とは違っていることなど、当時の様子とともに描かれていて、大倉喜八郎という人物を間接的にですが知ることができる本だと思います。

じっくり時間をかけて読みたかったのですが、図書館では古書貴重本という取扱いで館内のみ閲覧可能。
国立国会図書館のデジタルコレクションになっているので登録すれば個人送信で閲覧可能ですし、図書館送信サービスに対応している図書館であれば館内での閲覧可能ができます。もちろん国立国会図書館以外で「鶴翁餘影」を所蔵している図書館はあります。気になる方は、検索してみてくださいね。

伊東忠太が寄せた追悼文「趣味の鶴彦翁」


大倉喜八郎は平安神宮や明治神宮、築地本願寺や湯島聖堂をはじめ、明治から昭和にかけて様々な建築設計を行った伊東忠太とも交流を持っていて「大倉集古館」「祇園閣」「眞葛荘」(現存する建築物)の設計を依頼しています。

先に紹介した大倉喜八郎追悼文集「鶴翁餘影」に伊東忠太も「趣味の鶴彦翁」というタイトルで追悼文を寄せています。そこには、京都に現存している祇園祭の山鉾をかたどった望楼「祇園閣」【平成9(1997)年登録有形文化財(建造物)】を建てるまでの喜八郎とのやりとりが記されています。

ちなみに、鶴彦翁というのは大倉喜八郎の幼名が鶴吉で、趣味の狂歌で号を「鶴彦」としていたことからきていて、祇園閣の屋根上にある銅棹の頂には羽を広げた鶴が置かれ、正面入口の扉内側にも鶴があります。

祇園閣 大雲院側から望む

「趣味の鶴彦翁」によると、忠太は喜八郎から電話で呼び出されて向島別墅に行くと――
『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』と依頼を受けた。そこで傘が逆さになった建物を描いて喜八郎に見せたが「これはいかん」と言って諦められた。時間を経て再び呼ばれると次は『祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』と依頼された。

そこで今の祇園閣のような形を描いてOKをもらい、計画が動き出したという経緯が書かれています。

「これはいかん」と大倉喜八郎に言わしめた「試しの數案」


日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の中にある伊東忠太が描いた漏斗状の傘の絵は洋傘に見えます。ただ、喜八郎が依頼をするときに洋傘と語っていたのかはわかりません。

書籍「鯰 元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」大倉雄二著には『彼(喜八郎)が伊東に頼んだのは、おちょこになった番傘を高い屋根に載せた塔であった』と書かれています。

おちょこというのは、傘が反転した様子が御猪口に似ていることから、漏斗状になった傘のことを「おちょこ」になると表現します(関西ではまったけなど、いろいろ呼び名があるようです)。

そして先ほどの文章に続いて、喜八郎に「おちょこになった番傘の建物」を諦めさせるため忠太は『珍妙な石膏模型を造って彼(喜八郎)に見せた。たぶんできるだけ格好の悪い』見ただけでおかしくなりそうなものを造って見せたと書かれています。それで喜八郎が「これはいかん」と言って諦めたと。

追悼文集「鶴翁餘影」「趣味の鶴彦翁」の中で忠太は『兎に角試しに數案を作って翁に示した』と書いていますが「おかしなものを造って見せた」とは書いていません。そこはあえて触れなかったのでしょうかね?

ただもし【野帳40】にある漏斗状の傘の建物の案が通り京都東山エリアにできていたら――今の祇園閣も斬新な建物ですから――ねぇ。

2024年12月12日木曜日

祇園閣が山鉾の形になった理由(その1)


大倉喜八郎の生誕90歳を記念して建設された京都にある祇園閣は祇園祭の山鉾の形をしていますが、当初は山鉾ではなく違う形で建設する予定でした。

設計者の伊東忠太に「空前絶後」と言わしめた、喜八郎が依頼した形は『漏斗状になった傘』から祇園祭の山鉾の形になった理由を探ってみました。

俎倉山から飯豊連峰を望む

今日のイラストは、新潟県新発田市にある標高856mの俎倉山から飯豊連峰を望むです。新発田市は今日の話に出てくる、京都東山エリアにたたずむ「祇園閣」を建てた実業家、大倉喜八郎の郷里。

喜八郎がリクエストした「漏斗状になった傘の形」の建物


京都にある祇園閣は大倉喜八郎が伊東忠太に設計を依頼して建てた楼閣で、別邸「眞葛荘」と同時期の昭和2(1924)年に完成しました。

祇園閣の設計を忠太に依頼したとき喜八郎は『漏斗状になった傘の形』をした建物を建てて欲しいと要望したそうです。

これを受けて忠太は傘が逆さになった建物のスケッチを描き大倉喜八郎に見せたのですが採用とならず、その後改めて喜八郎から『祇園祭の山鉾の形』の建物というリクエストを受け、山鉾をモチーフにした建物を描いたというエピソードがあります。

大倉喜八郎が『漏斗状になった傘の形』の建物を伊東忠太にリクエストしたのは理由がありました。

当時のことを忠太は喜八郎の追悼文集「鶴翁餘影」で次のように書いています。

大倉翁から電話で呼び出され向島の別邸に行くと、翁は握手をしたのち次のような空前絶後の注文を提出した。

『或る雨風の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗状に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かったので忘れ難い。その形をその儘建築にして造って貰い度い』

その依頼内容に驚きつつ忠太は「翁の性質として一旦言ひ出されたら決して無条件で取り消されぬのであるから」「無理とはおもひながら」案を練って示したが(野帳40にある祇園閣エスキースは洋傘を逆さにした面白い建物です)さすがの喜八郎も「これはいかん」と言って諦めたそうです。

その後、時日を経て忠太は再び向島別邸に呼ばれ喜八郎から

『京都の眞葛ケ原に小さい別荘を建てようと思ふ。その敷地内に祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰い度い』

と言われた。
そのとき、喜八郎は「寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明された」と忠太は書いています。そして「これならば物になるという自信が湧いたので即座に快諾した」と続けています。

参考:『鶴翁餘影』昭和4(1929)年発行

山鉾の形の祇園閣のエスキースも、洋傘が逆さになった形の祇園閣のエスキースも日本建築学会 デジタルアーカイブス伊東忠太資料【野帳40】の1ページに並ぶような形で掲載されていますが、同資料【古写真 国内建築写真など】の中に祇園祭りの山鉾写真も掲載されています。

2024年7月12日 撮影
祇園祭山鉾惹き始め(前祭)菊水鉾

『鶴翁餘影』で忠太が書いていた「喜八郎が鉾の形式を説明するときに見せた寫眞(写真)」とデジタルアーカイブス【古写真 国内建築写真など】に掲載されている写真が同じ物だとしたら、喜八郎の持っていた写真だとしたら――なんていう想像をしてしまいました。

漏斗状になったのは和傘か洋傘か


伊東忠太が描いた「漏斗状に上向きに反轉した傘」のエスキースを見ると、傘の種類は「洋傘」のようですが、喜八郎は傘の種類について忠太にリクエストしていたのでしょうか?

そもそも喜八郎が「漏斗状になった傘の形」を見たのがいつなのか? 【上京する前の郷里にいたとき】とか【子どもの頃お使いにいったとき風の強い土手で】といった話が書かれているのを見ますが『鶴翁餘影』内の忠太が書いた文には、その辺のこと、傘の種類についても触れていません。

洋傘は幕末より前に日本に持ち込まれていたようですが、一般に普及しはじめたのは明治文明開化の頃。

もし「漏斗状の傘」の話が喜八郎が郷里にいるときの話だとしたら、喜八郎が上京したのが嘉永7(1854)年、江戸時代幕末なので洋傘はまだ普及していません。
※鶴友会発行「大倉鶴彦翁」には、安政元年10月頃と記されています。年号嘉永は嘉永7年の11月27日に安政に改元される。

ここで、ひとつ推測してみたのですが、喜八郎が江戸に行く途中に洋傘を持っている人を見つけて、その人の洋傘が風にあおられて漏斗状になり、それが旅立ちの思い出として鮮明に記憶に残って、年齢を重ねてから出立の決意を建物の形として残そうとした――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅱ)。

喜八郎が上京を決意して実行した時期は、嘉永6(1853)年ペリー率いる艦隊が浦賀沖に来航し、嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結されるなど、日本国内が大きく変わりはじめたとき。

嘉永7年にペリー提督一行が上陸したとき、洋傘を持っている人物が数名いて、日本人の多くが洋傘を目にしたそうです。

参考:日本洋傘振興協議会「洋傘の歴史」

米船渡来見聞絵図
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/P15014?locale=ja


嘉永6(1853)年と翌年安政元(1854)年にペリー率いるアメリカ艦隊が来航したときの様子を描いた絵図。右端に傘の絵が描かれています。

喜八郎もその様子を目にしていたのかというと、喜八郎が上京したのは嘉永7年の10月頃で、そのときペリー艦隊は浦賀から離れて那覇、香港にいたので、喜八郎はペリー艦隊も洋傘も目にしていないでしょう。

では、上京する途中で洋傘を目にするような機会はあるか? と考えると新発田から新潟町へ出て江戸に向かったのなら、北前船の寄港地として栄えて賑わっていた新潟湊や全国屈指で祇園、新橋と並び称されていた古町花街で洋傘をさしている人が歩いていたかも――という想像をしてしまいました(本日の想像Ⅲ)。

そこで、古町芸妓さんを描いた浮世絵や写真の中に洋傘をさしているものがあるかも? と思って探してみましたが……洋傘を持っている古町芸妓さんの浮世絵や写真はありましたが明治以降の作品でした。

参考:豊原国周「戀湊女浪立田」明治8(1875)年

ただ、喜八郎が新発田から新潟町に出て江戸に向かったという想像Ⅲは正解でした。喜八郎のお姉さんが新潟町に嫁いでいて、そこに立ち寄ってから江戸に向かったという記述を見つけました(喜八郎上京いついてはまた後日)。

喜八郎が上京する前の新発田、上京途中の新潟町や江戸へ向かう街道でも洋傘を持つ人はまだいなかったと思います。「漏斗状の傘」は和傘だったのでしょう。

ではなぜ忠太は洋傘で描いたのか? 長くなったので続く。

2024年12月7日土曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その3)野帳のスケッチ

 

普光寺毘沙門堂
昭和61(1986)年スケッチ

一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料の野帳を見始めたのは、大倉喜八郎の京都の別邸「眞葛荘」敷地内に建てられた「祇園閣」のエスキースを探すためでした。

お目当ての「祇園閣」のエスキースを見つけるまで時間がかかりましたが、その間思わぬ発見があって、忠太が描いた普光寺のスケッチを見つけることができました。

日本建築学会 デジタルアーカイブス 伊東忠太の資料


一般財団法人日本建築学会の建築博物館デジタルアーカイブス・伊東忠太資料「野帳」は全部で75(55欠番)冊掲載されています。
1冊何ページもありますが、ページ毎にPDFになっていて、各冊に説明書きやサムネイルも丁寧に説明されていて、どの野帳にどんな内容が書かれているのかわかりやすいです。

資料を整理された方々のご苦労がわかります。資料をデジタルで拝見できるのは、とてもありがたいです。

野帳には建造物スケッチや調査資料のほか、目移りする魅惑的な風刺画や妖怪や神獣のイラストなど沢山描かれていて、お目当ての「祇園閣」のエスキース探しを忘れてしまうほど野帳を見るのに夢中になってしまったのです。

【野帳】は横長のノートですが「祇園閣」は高さがあるので、横長ノートを縦方向でエスキースが描かれていて(天地が左右になる)探しベタなせいもあり見落とし、野帳を二周くらい見て回って「祇園閣」のエスキースを【野帳40】で発見しました。

野帳50に描かれていた普光寺毘沙門堂


そんな【野帳】閲覧の中で「やった!」という思わぬ発見がありました。

【野帳50】大正六年後 雑記 大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃の説明文に「新潟県における文部省古社寺調査らしき、社寺建築細部のスケッチ」と書かれています。

※【野帳33】には「内務省古社寺調査」と書かれていたのに【野帳55】では「文部省古社寺調査」?
それは、古社寺保存法の所管が大正2(1913)年に内務省から文部省へとなったからでした。

新潟県という文字に惹かれて【野帳50】のPDFを開いてみると、普光寺毘沙門堂について記した文とスケッチがあったのです! 

細かい建築部材のスケッチや古文書からの抜粋文などが書かれているのですが、8ページのスケッチは普光寺山門(仁王門)じゃないのかな? と。
あくまでも、スケッチと普光寺山門で自分で撮影した写真を見比べての私見ですが。

普光寺山門(仁王門)正面から回廊方面

普光寺山門(仁王門)正面

でも、下浦佐村天王寺 永徳二年一一月一三附 寄進状(もっと書かれていましたが読めませんでした) といった文字や、毘沙門堂という文字と部材スケッチ、多聞天堂という文字の横に平面図も描かれています。

普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定された時期は?


【野帳50】の説明文にある大正5(1916)年10月頃~大正6(1917)年2月頃に野帳を伊東忠太が執筆していたとしたら、それは普光寺毘沙門堂が特別保護建造物に指定される前となります。

彌彦神社の毘沙門堂の特別保護建造物指定は「大正6年8月13日」。
参考:弥彦村 観光情報 文化財 

ちなみに、彌彦神社は明治45(1912)年に火災で社殿が焼失し大正5(1916)年に伊東忠太設計で社殿が再建されているので、彌彦神社境内末社十柱神社社殿の特別保護建造物指定と社殿再建が平行で進行していたのでしょう。

普光寺毘沙門堂も大正6年に特別保護建造物に指定されています。月日はいつなのか? という点ですが、資料を見つけられませんでした。大正六年八月までの間に指定された、ということは間違いなさそうです。

その理由は、大正6年に出版された「特別保護建造物并国宝目録」黒板勝美著に普光寺毘沙門堂と掲載されていて、同書【例言一】には次のように掲載されています。

本書は明治三十年十二月より大正六年八月(最近指定)に至る間に指定せられたる特別保護建造物及び國寶一切の目録なり。

つまり、普光寺毘沙門堂は大正六年の八月までの間に、特別保護建造物に指定されていたということ。

【野帳50】大正5年10月~大正6年2月までの間に伊東忠太が普光寺を訪れていたら、彼は昭和6年の火災で焼失する前の毘沙門堂を見たと思います。
【野帳50】に描かれているスケッチは焼失前の毘沙門堂のどこかを写したものなのでしょう。

忠太が何故、普光寺を訪れたのか? ということが気になりますね。

彌彦神社の再建と古社寺保存会委員としての活動、自身のフィールドワークを伊東忠太が新潟県内で行っていたと想像するとワクワクしますね。

2024年12月1日日曜日

伊東忠太と彌彦神社と普光寺毘沙門堂(その2)古社寺保存会

 


今日のイラストは、普光寺の山門(回廊側から)
昭和60(1985)年3月3日のスケッチ

新潟県南魚沼市にある越後浦佐普光寺の毘沙門堂と、新潟県西蒲原郡弥彦村にある越後一宮彌彦神社はどちらも伊東忠太が設計を手がけています。
この2つの建物は、以前の建造物が火災で焼失し、忠太が再建設計を行ったという共通点がります。それ以外にも、毘沙門堂と彌彦神社には忠太が関係する共通点がありました。

越後一宮彌彦神社と普光寺毘沙門堂―伊東忠太再建設計


普光寺 毘沙門堂は室町前期の建物と言われていましたが、昭和6(1931)年に火災で焼失してしまいました。

その後、昭和12(1937)年、伊東忠太の設計で再建されたのが、現在の毘沙門堂。

残念ながら焼失してしまいましたが、室町前期に建てられたという毘沙門堂は大正6(1917)年に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定されていました。

そして、越後一宮彌彦神社境内末社の十柱神社社殿も同年に特別保護建造物に指定されています。

参考:文化庁 文化財オンライン 弥彦神社境内末社十柱神社社殿


また残念なことに彌彦神社(社殿)も明治45(1912)年に火災で焼失し、大正5(1916)年に伊東忠太設計で再建されています。

十柱神社社殿は火災を逃れ、大正6(1917)年の特別保護建造物に指定されました。

彌彦神社と毘沙門堂は、特別保護建造物・火災・伊東忠太設計で再建という共通点があるのです。

古社寺保存会委員としての活動


一般財団法人日本建築学会のアーカイブ検索内にある、伊東忠太資料【野帳33】の説明文に、明治33(1900)年3~8月「内務省古社寺調査で日本各地を旅している時のフィールドノートに描かれたもの」と書かれています。

このとき、伊東忠太は内務省の「古社寺保存会委員」として活動していました。

明治初期、明治維新の混乱や改革で、美術品や宝物の輸出、仏像や建造物の破壊などが著しくなり、文化財が危機にさらされたのです。

これを保護するため、国は調査を行い「古器旧物」(古美術)維持修理のための保存金を公布しました。

その後、建物も維持保護するべきだという気運が高まり、古社寺の建物や宝物類を保護するための法律「古社寺保存法」が明治30(1897)年に成立します。
これに先立ち、古社寺の調査や学術的指導などを行うための諮問機関として「古社寺保存会」が明治29年に設置されています。

【野帳33】の説明文にあるように伊東忠太は、古社寺保存会の委員として日本各地を巡っていたのですね。

古社寺保存法については文部科学省のサイトに掲載されていますが、国立公文書館のサイトがわかりやすく当時の資料も見られるので、そちらのリンクを貼らせていただきます。

参考:国立公文書館 ようこそ歴史資料の宝庫へ Ⅰ歴史資料の世界③公文書の世界 15.明治時代の文化財保護政策